フランス写真館

このページでは観光地としても名高いフランスの光景を紹介するとともに、その風景にまつわる文学事項も紹介していきたいと思います。掲載されている写真は全て学生によるものであり、無断転写はお断りいたします。

目次

◆メゾン・ド・バルザック
-Maison de Balzac-

メゾン・ド・バルザック内部 メゾン・ド・バルザック内部

バルザックの家です。ただで入れました。人間喜劇に出てくる人の家系図や 挿絵が壁一面にぶわーっと展示されてました。


◆モンソー公園、モーパッサン像
-Parc Monceau, la statue de Guy de Maupassant-

モーパッサン像

 パリ8区、閑静な住宅街の中にあるモンソー公園は、いつも子供たちの賑やかな声で溢れています。ゆっくりと散歩するご婦人方、ベンチで談笑する老人達や、あるいは仲睦まじい恋人同士。普段着のパリジャンたちを見守るかのように、公園の中央の芝生に立って目に留まるのが、このギ・ド・モーパッサンの彫像です。
 足元には本を手にしたまま夢想する女性の像があって、モーパッサンの愛読者を表しているそうです。彼女が読んでいるのは『女の一生』(1883年、杉捷夫訳、岩波文庫)の哀しいジャンヌの生涯か、あるいは『ベラミ』(1885年、杉捷夫訳、岩波文庫)の美貌の主人公デュロワに魅せられているのでしょうか。
 かつて永井荷風は、憧れのパリの地に着いた時、真っ先にこのモーパッサン像の前にやって来ました。「モーパッサンの石像を拝す」(『ふらんす物語』所収、岩波文庫)に、その時の熱い思いが綴られています。
 ちなみにモンソー公園には、18世紀当時の「廃墟」趣味から、古代風の柱や、東洋の仏塔、ピラミッドなどが園内に散らばり(日本から贈られた石灯篭も)、不思議な雰囲気を醸しています。園内を一周するとちょうど1キロ、散歩するのに最適な、お勧めの公園です。


◆ノートル=ダム大聖堂
-Cathédrale de Notre-Dame-

北の塔

「パリのノートル・ダム寺院が今日でもなお荘厳で、崇高な大建築物であることは疑いをいれぬ事実だ。古色蒼然たるこの大伽藍は見事に保存されてきている。が、それにしても心なき時の流れと人の手が、最初の土台石を置いたシャルルマーニュや、最後の石をすえたフィリップ・オーギュストの功績にまったく風馬牛の態で、この尊い寺院に加えたおびただしい毀損、破壊の痕を見るとき、われわれの胸からは、うたた悲憤の嘆息がもれずにはいないのである。(『ノートル・ダム・ド・パリ』上、辻昶、松下和則訳、昭和32年、p. 185)」
 パリを訪れたことのある人ならば、おそらくはその尖塔くらいは見るであろう大聖堂。夏に行くと観光客があふれ、うんざりするのだが、それでもいかずにはいられない。革命以前のものがあまり残っていないパリにおいて、珍しい中世建築の1つだから、高村光太郎が歌ったから、そしてやはりなんといってもユゴーの小説がよみがえるから。エスメラルダが舞い、カジモドが彼女を救ったのもここ。ファサードの向かいにはフェビュスの婚約者の家があったはず。そして塔からはフロロがパリを眺めていたはず。


北の塔 フロロが落ちた北の塔

◆アンボワーズ城
-Château d'Amboise-

アンボワーズ城

「八歳半のとき、父親は息子を連れてパリに赴いたが、市の日に彼をアンボワーズ市に立ち寄らせた。そのとおり父親は、アンボワーズの陰謀に加担した仲間の首がいくつか、まだ誰と見分けがつく状態で刑架の端に晒されているのを見て、ひどく立腹して、七、八千の人混みのなかで、「首斬り役人どもめ、フランスの首を刎ねおったな!」と叫んだ。それから父親のそばにいて、その顔にいつにない興奮の色を見てとった息子が、馬に拍車を入れると、父親は彼の頭に片手を置きこう言った。「息子よ、栄光にあふれたあの首の仇を討つために、わしはわしのこれを捧げるが、そのあとでおまえもおもえのそれを惜しんではならん。万一惜しんだら、わしはおまえを呪ってやる。」(『児らに語る自伝』、成瀬駒男 訳、平凡社、1988年、p.20)」
 ゆったりと流れるロワール河畔にあるアンボワーズ城。シャルル7世の孫であり、ルイ11世の息子であるシャルル8世が建てさせた城ですが、命じた本人はこの城の建築中に事故死したと言われています。後にフランソワ1世がダ・ヴィンチを住まわせたのもこの城のそばで、場内にはダ・ヴィンチの発明品と思われる戦車がぽつんと置かれていました。今ではシュノンソーやシャンボール城に観光客を奪われ、静かですが、1560年超カトリックのフランソワ・ド・ギーズ(アンリ・ド・ギーズの父)への陰謀、アンボワーズの陰謀が起こり、たくさんのユグノーの首が飛びました。上記の引用はそれを見たアグリッパ・ドービニェの記憶。



◆マルセイユ、イフ島
-Marseille, Château d’If-

イフ島を臨む

 灼熱の八月に、やって来たのは南仏マルセイユ。獲れたての魚を並べる出店を眺めながら、いざ船着場へ。遊覧船に乗って、港を出てしばらく行くと目の前に浮かんでいるのは、強い日差しを浴びて真っ白に輝く島と城壁、その名を「イフの城塞」という。
 16世紀国王フランソワ1世の命で建設されたこの要塞は、以後20世紀初頭に至るまで刑務所として使用されていた。アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』(1844年、山内義雄訳、岩波文庫)の主人公、エドモン・ダンテスが幽閉され、そして脱獄するのがここイフ島の監獄。
 もちろんダンテスの話はデュマの創作だが、現在は独房の一室に、ダンテスが抜け出したとされる抜け穴まであり、全体の展示のされ方もまるで『モンテ・クリスト』博物館。気分はすっかりダンテス、ここは一つ私も、生涯をかけての復讐を誓ってみることに?
 島からはマルセイユの町並みが一望でき、真夏の暑さも吹き抜ける強い風にいくらか癒される。それにしても暑かった! 城塞を眺めながら飲んだビールの美味さは、一生忘れられない思い出だ。
 灼熱の八月に、やって来たのは南仏マルセイユ。獲れたての魚を並べる出店を眺めながら、いざ船着場へ。遊覧船に乗って、港を出てしばらく行くと目の前に浮かんでいるのは、強い日差しを浴びて真っ白に輝く島と城壁、その名を「イフの城塞」という。
 16世紀国王フランソワ1世の命で建設されたこの要塞は、以後20世紀初頭に至るまで刑務所として使用されていた。アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』(1844年、山内義雄訳、岩波文庫)の主人公、エドモン・ダンテスが幽閉され、そして脱獄するのがここイフ島の監獄。

◆アルル、ドーデーの風車小屋
-Arles, le moulin d’Alphonse Daudet-

ドーデの風車小屋

南仏アルルの近郊、フォンヴィエイユ (Fontvieille) の村。林の中、小高い丘の上に、三角の赤い屋根が可愛らしい、小さな小さな風車小屋が建っている。
 アルフォンス・ドーデーが『風車小屋だより』(1869年、桜田佐訳、岩波文庫)を書いたのが、この風車小屋である。
 というのは実は本当ではなく、実際にはドーデーは「この辺り」を舞台にしたというだけで、この風車も、使われなくなって放置されていたのをレストアしたもの。風車も今は回ってはいない。
 とはいえこの愛苦しい風車、ドーデーの描く物語の雰囲気にもぴったりで、気分はすっかり19世紀のプロヴァンス。 そんな感慨に浸って見回していると、この地を愛してやまなかったドーデーの言葉が、風車の壁に飾ってあった。
 « Ce coin de roche qui m’était une patrie et dont on retrouve la trace – être ou endroit – dans presque tous mes livres »「この岩地の一角が私の故郷であり、その痕跡は――生き物であれ場所であれ――ほとんど全ての私の書物の中に見出されることだろう」アルフォンス・ドーデー



◆リヨン、ベルクール広場、サン=テグジュペリ像
-Lyon, Place Bellecour, la statue d’Antoine de Saint-Exupéry-

サン=テグジュペリ像

 リヨンといえば食の街。リヨン料理を味わうなら、ブションbouchonsと呼ばれるレストランへ。アントレ(前菜)にはサラダ・リヨネーズやタブリエ・ド・サプール(牛胃のパン粉焼き)。プラ・プランシパル(主菜)にはクネル(肉や魚のすり身を固めたもの)やアンドゥイエット。デザートの前にセルヴェル・ド・カニュ(「絹織物職人の脳」という名のチーズ料理)。ボルドーやコート・デュ・ローヌの赤ワインと一緒に、「コルドン・ブルー」(料理の達人)の技に酔いしれたいですね。
 満腹になったら街を散歩してみましょう。おや、あそこに立っている像は誰でしょう。飛行服姿で、後ろには小さな男の子が立っていますね。
 そう、ここリヨンの街は『星の王子さま』(1943年、内藤濯訳、岩波書店)で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの生まれ故郷でもあるのです。サン=テグジュペリは飛行士でした。
 黎明期の航空業界はまだ事故も多く、それ故に勇敢な飛行機乗り達は己が命を賭けて、果敢に空へと飛び立って行ったのです。『夜間飛行』(1931年、堀口大學訳、新潮文庫)、『人間の土地』(1939年、堀口大學訳、新潮文庫)は、日本の宮崎駿監督もお気に入りだそうですね。
 リヨンの街を見下ろすサンテックスと王子さまに別れを告げたら、次はどこのレストランに行きましょうか?