第7章 恐慌〜第二次世界大戦
―1929-1945―

 
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北半球から始まった恐慌・大戦は南半球へも拡大する

1929年、ニューヨークで発生した恐慌は、遠く離れたオーストラリアをも飲み込んだ。失業率は30パーセントに迫る。国際収支は急速に悪化。緊縮財政など痛みを伴う政策をとらざるをえなくなる。そのことが、オーストラリア政治に与えた影響は大きい。労働党が政権に返り咲いたものの、首相スカリンは政治的困難を乗り切ることができず、労働党の分裂を招いた。こうした混迷の時代、町にはスラムが形成され、失業者が騒動を起こすことを恐れた政府は、彼らを地方に送り、都市から排除した。

さらにオーストラリアは、第二次世界大戦という大きな時代の荒波に直面する。政府は社会保障制度を充実させ、国民を効率よく動員し、女性労働力の活用も積極的に進められた。第二次世界大戦は連邦を中心に国民統合を図る過程でもあった。さてここから、恐慌・第二次世界大戦それぞれが、オーストラリアにどのように影響したのか見ていこう。

本文

大恐慌から第二次世界大戦にかけての15年間は、政治的にも経済的にも連邦の役割が拡大し、戦時動員や社会保障制度の確立によって国民統合が進んだ時代であった。

T.大恐慌の時代

◆恐慌以前の不況

1929年の大恐慌以前からオーストラリア経済は不況に陥っていた。20年代の実質平均経済成長率は2.7パーセント。この数値は大恐慌後の30年代よりも低く、特に26年から29年まではマイナス成長を記録する。オーストラリアでは、建設投資が経済発展を支え、その資金は海外に依存していた。公共投資が所得と雇用水準を押し上げていたのである。農業分野では品種改良や機械化、化学肥料の使用など技術革新が進んだことで、生産性が向上し、過剰生産が問題になった。小麦は25年をピークに、羊毛は27年をピークに国際価格が低下した。鉱業分野でも生産性の向上により価格が低下した。

◆大恐慌の到来

スカリン率いる労働党内閣が29年10月に発足。大恐慌に対処することになる。オーストラリアはもともと世界的な農業不況に苦しんでいたが、そこにニューヨークの株価暴落が追い打ちをかけた。海外からの資本流入の停止や輸出品価格の低下により国際収支は危機的状況であった。オーストラリアから資本が流出し、それに歯止めをかけるために12月には金輸出が実質的に禁止される。ロンドン市場の取引縮小により外債に依存した資金調達が困難になり、深刻な景気悪化を招いた。この危機的状況に対処するため、イングランド銀行から派遣されたニーメヤー卿は政府支出の削減を勧告する。彼は、これまでの国内産業保護策と多額の外国借款により、オーストラリアの生活水準が生産能力を上回っている状況を問題視した。政治的にも経済的にも困難な状況のもと、蔵相セオドアへの汚職疑惑や、彼が対外債務支払い停止提案したことによって、政界再編が起こった。31年5月閣僚の一人であるライオンズが労働党を脱退し、統一オーストラリア党を結成した。31年6月、スカリンは政府支出の2割削減を発表。政府の債務軽減のため金利引き下げ、増税を実施した。そのほか、海外債務を国内債務に切り替えることで、恐慌時の景気悪化の原因となった外債依存体質の改善が行われた。

◆失業問題

失業により人びとの生活は崩壊していった。失業率は29年末に13%、30年末23%、31年28%に達した。さらに31年には法定最低賃金が10%引き下げられた。生活費を減らすため、家庭菜園を行うものやごみ箱をあさるものもいた。既婚の女性教師は退職に追い込まれる。町にはスラムが形成され、失業者が社会不安を引き起こすのではという不安を抱く人びともいた。ある州では、失業者を地方の勤労奉仕キャンプへ送り込み、都市から排除することも行われる。家賃を払えず家を失った人びとは都市から農村部へ流入した。農村部に行けば、季節労働や政府の失業対策事業の職があったが、その職を得るのは決して容易ではなかった。彼らのような流れものには家もなく、すぐさま別の町に移動しなければならなかった。

U.経済回復に兆し

1932年12月の総選挙で労働党は大幅に後退し、スカリン内閣は崩壊する。その後、統一オーストラリア党のライオンズ率いる内閣が発足した。32年から景気は回復傾向に転じる。それには二つの背景がある。一つ目は30年の「スカリン関税」と呼ばれる輸入制限と関税の引き上げである。これまでの関税率に対してさらに50パーセントを付加。78品目の輸入禁止措置が取られた。これにより総需要が落ち込む中、製造業は国内市場を確保し輸出減少に対応できた。32年にはオタワ会議により英帝国特恵関税制度が確立、帝国内での貿易が確保された。二つ目は為替レートの切り下げである。恐慌前オーストラリアポンド:スターリングは1:1で固定されていた。しかし、31年12月には対ポンドで25%切り下げられ、輸出が拡大した。

V.第二次世界大戦の始まり

◆イギリス本国への協力と保守政権の崩壊

メンジーズが首相を務める統一オーストラリア党内閣は1939年4月に発足した。彼はイギリス政治とイギリス的生活習慣を好む人物であった。イギリスがドイツに参戦するとイギリスからの協力要請を待たずにオーストラリアの参戦を表明する。それによりオーストラリア軍がヨーロッパへ派兵された。その年、これまでの志願兵による軍隊のほかに、徴兵による市民軍が結成され、3ヵ月の軍事教練が21歳以上の独身男性を対象に義務化された。しかし志願兵と違い、彼らは海外へ派兵されなかった。こうしたなか、40年のフランスの降伏、イギリス本国への空襲が開始されると、それまで人気のなかった軍への志願者が増加した。人びとが戦争に動員されていく一方で、イタリア系・ドイツ系住民は強制収用され、社会から排除されていく。

メンジーズ政権は40年の総選挙後、下院において野党との小差で苦しんでおり、メンジーズへの不満が高まった。8月の閣僚会議では彼に対する退陣要求が出され、結果彼は退陣する。

◆戦時経済

40年から45年の実質平均経済成長率は5.9パーセントを記録した。経済成長により失業率が低下し、40年代前半にはほぼ完全雇用が実現した。戦時における経済政策は、戦争遂行のための物資確保とインフレ防止に重点が置かれた。40年に国家保安法を成立させ、政府は国内の人的物的資源を管理できるようになった。戦時物資の生産のため、工作機械の国産化や熟練労働者の育成も図られた。恐慌以前から困窮状態にあった羊毛産業や鉱業も、戦時需要のために回復した。戦争遂行のため、連邦の財政規模は拡大し、公債の発行が盛んに行われる。40年5月には2000万ポンドの公債が発行された。

一方、政府支出の増大により、物価と賃金の上昇といったインフレが生じた。そこで、増税や公債発行、民間銀行の利潤回収が行われ、民間の購買力を減少させた。

W.日本との戦争

1941年10月労働党が政権に返り咲き、カーティンが首相に就任した。彼はメンジーズと違い、イギリスへの疑念を持っていた。彼の内閣発足後の12月、日本が参戦する。東南アジアにおいて日本は快進撃を続け、オーストラリア国民の間には不安が広がった。都市部では、日本軍がオーストラリア沿岸部への上陸を試みているとの噂もあった。そうしたなか、カーティンはその年の年末、これまでのイギリス本国への依存ではなく、アメリカを中心とした防衛計画を立てることを表明する。彼は、対日戦争は枢軸国相手の戦争ではなく新たな戦争であること、オーストラリアも戦時体制をとるべきであると認識していた。そうしたなか42年2月シンガポールのイギリス軍が降伏。オーストラリア兵15000人が捕虜になった。またダーウィン、ブルームなどへの爆撃が行われ、戦火が本土にも及んだ。チャーチル、ルーズベルトの要請に基づき、ヨーロッパに派遣されていた第7師団をビルマに投入させる予定であった。しかし、カーティンは、それをかたくなに拒否し第7師団を国土防衛のためにオーストラリアへ戻した。42年3月、日本軍がニューギニアに上陸したが、5月の珊瑚海海戦では日本の進撃を阻止することに成功した。アジア太平洋地域における日本の勢力拡大は、オーストラリアの戦後外交関係に大きく影響を及ぼした。44年1月、外相エヴァットはニュージーランドとアンザック条約を締結した。これは日本からの国土防衛と、両国が協力することで英米への発言力を増すことを意図したものであった。

X.戦争遂行と国民統合

◆銃後の社会

労働党政権は戦争の遂行、日本の勢力拡大阻止に力を注ぐ一方で、失業の防止にも懸命であった。42年には人的資源規制法が成立し、熟練労働者は軍への入隊、転職が禁止される。戦争遂行に直接関係しない職業従事者は、転職か軍への入隊を求められた。つまり、戦争遂行のために労働者確保が行われたのである。労働党政権下では、賃金・物価・金利の統制、戦費確保のための増税が行われる一方、医療保険や老齢年金などの社会保障が拡大された。また、情報省による反日プロパガンダ、塹壕・防空壕の建設が進められた。

◆女性やアボリジナルの労働力活用

大戦中の女性やアボリジナルの社会進出が、戦後彼らの地位向上につながっていく。

41年から女性の軍への入隊が許可されたほか、軍へ入隊する男性の代わりとするべく、女性労働力が活用されるようになる。結果、有給の仕事に就く女性が39年の64万から43年の84万に増加した。女性の仕事としては、軍隊での通信業務など非戦闘業務、農業生産の補助。郵便事業や工場労働などが挙げられる。ただし給与は男性より低く設定されていた。また、有給の仕事だけでなく赤十字活動など、ボランティア活動にも従事する人も多くいた。

女性と同様にアボリジナルの労働力も活用された。彼らは食肉処理や弾薬の積み下ろしに従事し、一週間に10シリングの給与と軍の兵士に準じた待遇を受けた。それまでアボリジナルに対して、怠惰であるとか社会的生活能力がないといった偏見があった。しかし、戦時中の彼らの勤勉な働きぶりは、そういった偏見に根拠がないことを証明したのである。

◆アメリカ文化への接近と軋轢

アメリカ軍兵士が大量に流入したが、そのことはオーストラリア社会に様ざまな影響を与えた。42年11月にはブリスベンで、43年2月にはメルボルンで、そして44年にはシドニー、パースでオーストラリア人とアメリカ人との間で大きな乱闘騒ぎが発生している。いっぽうでオーストラリア人女性とアメリカ軍兵士との間の国際結婚もさかんに行われた。それは、一部で国際結婚反対論が出るほどであった。消費文化に目を向ければ、40年代中盤、コカコーラがオーストラリアで製造され始めた。後に50年代になって、文化的アメリカ化が本格化するが、その兆しがこの頃に現われていたのである。

参考文献

石田高生『オーストラリアの金融・経済の発展』日本経済評論社、2005年

藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣、2004年

山本真鳥編『オセアニア史』山川出版社、2000年

マニング・クラーク(竹下美保子訳)『オーストラリアの歴史』サイマル出版会、1978年

Geoffrey Bolton, The Oxford History Of Australia, VOL5 , (Melbourne, 1990)

 


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