第10章 コアラの歴史
―1788-2011―

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コアラ、あなたは何も知らない

交通量の多い道の真ん中に横たわる1匹のコアラ。交通事故でしょうか。目立った外傷はありません。しかし彼のお尻はひどくよごれています。クラミジアです。クラミジアは非常に多くのコアラに見られます。またコアラエイズ(KIDS)も急速に広まり、こういった病気がコアラの死因の約半分を占めます。コアラの生息数はここ6年で10万頭から4万頭にへり、絶滅の可能性があります。しかしオーストラリア政府はコアラを絶滅危惧種に指定するのを拒んでいます。

コアラが絶滅の危機に瀕しているのはこれが初めてでしょうか。ヨーロッパによる入植以前には、先住民が食糧としていました。その後、入植がはじまり、 コアラは毛皮のために狩られ、1930年代にすでに絶滅の危機にありました。 その後保護活動が行われましたが現在再び危機に瀕しています。

本文

T.コアラ、歴史に登場

◆イギリス人入植以前

イギリス人が入植する以前は、アボリジナルがコアラを食料としていた。しかし、コアラの肉はユーカリ独特の嫌な味がするうえ、殺すときに人間の子供のような哀れな泣き声を上げるため殺すのをためらう、というアボリジナルの証言もある。実際、アボリジナルはもちろん、カンガルーなどを食べることもあった植民初期のヨーロッパ人もコアラを食べることはほとんどなかった。

コアラという呼び名が現在使われているのは偶然といえる。コアラの生息地であるオーストラリア東部から東南部にかけて、アボリジナルには様ざまな言語があった。シドニー周辺ではコアラはコロ、クーラー、カラワインなどと呼ばれていた。「コアラ」の意味としては、「水を飲まない」と一般に言われているが、コアラが捕まえられたときに見せる猛反撃の様子を指して「噛みつくもの」「怒り」を表しているとも言われている。

◆植民の始まりとコアラの記録

1788年にイギリスの植民が始まり、オーストラリアに流刑囚が送られ始めた。入植初期は、白人たちにとって内陸部は未開の地であったが、刑期を終えて奥地を旅行するものも現われた。そのうちの一人ジョン・ウィルソンは、1798年に総督に雇われて内陸探検を行い、同年に、同行した自由移民のジョン・プライスが日記でコアラの存在を以下のように報告している。「原住民がカラワインと呼ぶ動物もおり、それはアメリカのナマケモノによく似ている」。

1803年8月21日、10月9日には、シドニー・ガゼット紙に、総督や軍曹が入手したコアラの特徴や生態に関する記事が掲載されている。コアラの標本も持ち帰られ、動物学者たちが研究するが、クマなのかサルなのかナマケモノなのかさえ分からなかった。まだダーウィンの進化論発表以前であったため、ある学者はこう記した。「まったく無様な体形の異様さを見ても、奇妙な顔つきや生態を見ても、偉大な造物主はいったいいかなる有益さや幸福をこの動物に与えたのか想像もつかない」。

U.コアラの利用

◆ペットとしてのコアラ

コアラが発見されて以降、科学者や自然愛好家、狩猟家たちが、この珍しい動物をそれぞれの目的に利用した。コアラが初期移民のペットとなることも珍しかった。しかし、毎日新鮮なユーカリの葉を確保するのが困難で、大抵の場合非常に短命に終わっている。なかにはパンやジャムを食べ、紅茶を飲み10年前後生きたコアラも報告されているが、野生のコアラの寿命が10年から20年程度であることを考えても非常にまれである。

コアラを海外に持ち出そうという試みも行われたが食料の問題で長く果たされることはなかった。ようやく1880年になって記録上初めて生きたコアラがイギリスへ持ち出され、元気に過ごしていたが、動物学会の日誌によれば、そのコアラは洗面台のふた(当時はふたつき)と本体の間に首を挟まれて窒息死しているのが発見された。1960年にはサンディエゴ動物園でコアラが出産し、オーストラリア国外では初のでき事となった。

◆コアラの研究

20世紀になると、動物園でコアラが飼育されるようになった。一方で、コアラについての知識は非常に限られていたため、動物学者たちはコアラを解剖して、体の構造の把握に努めた。その知識を人間に応用するものも現われた。同世紀の初頭にビクトリア州で小児まひが多発したとき、メルボルンのある外科医は、コアラの筋肉構造の研究から着想を得て一種の副木を考案した。

この治療法は、第一次世界大戦におけるヨーロッパ戦線でも使用されることになる。第一次世界大戦では塹壕戦が展開され、腕や肩に負傷するものが多かったため、この副木を利用することができた。

V.コアラ大殺戮

◆大殺戮の始まり

19世紀オーストラリアではコアラ撃ちが娯楽の一つであった。

やがて白人たちはコアラの毛皮に関心をもつようになり、遅くとも19世紀半ばにはコアラを毛皮目的で殺すようになっていた。同時期のゴールドラッシュで金鉱探しに失敗し、厳しい労働を強いられる開拓農業にも従事できない者たちが、生き残りをかけて狩猟をやることになった。

毛皮のほとんどはイギリス・アメリカへ輸出された。コアラの毛皮は安価で取引さ れたが、馬車用敷物、帽子などをつくるには十分だった。1889年には30万枚もの 毛皮がイギリスへ輸出され、20世紀初頭になってなお増え続ける。アメリカでは、 ゴールドラッシュで渡米したオーストラリア人が流行を持ち込み、防寒具としてアラ スカに広まっていった。

◆保護運動への転換

上でみたように毛皮のために乱獲され、コアラの数が激減したので1898年にはビクトリア州で保護獣扱いになった。しかし相変わらずコアラは狩り続けられ、その毛皮に、別の有袋類である「ウォンバット」のラベルがつけられて輸出されて いた。また、州によって保護政策に違いがあり、クイーンズランド州などでは依然 コアラを売買することができた。1908年のシドニーでの毛皮取引量は5万8000枚に のぼる。

コアラの生息数が多かったために保護政策が遅れたクイーンズランド州でも、ようやく1906年には政府公示の解禁期以外にコアラを狩ることが禁止された。1919年までに5回の解禁期がもうけられ、最後の解禁期では6カ月で100万枚もの毛皮が狩られた。第一次世界大戦の帰還兵のなかで定職につけなかった者たちにとってコアラ猟は救いであり、100万頭殺してもなお禁猟措置に根強い反発があった。

こうした背景のもとで1927年にクイーンズランド州政府はコアラ狩猟解禁を公示する旨を発表した。州政府は、特定の地域ではコアラが多数生息していると説明したが、ブリズベン・クーリエ紙にコアラは絶滅の危機にあるという記事が掲載されるとたちまち反響を呼び、大規模な抗議運動に発展した。野党の党首(州政府は労働党)もコアラ狩猟解禁を非難し、コアラは政治的な武器となった。

◆コアラ保護区の誕生

激しい反発にもかかわらず、クイーンズランド州政府は1927年に1カ月の解禁期を 設け、約60万枚の毛皮が狩られた。全体の売上は約15万ポンド(22億5000万円)に のぼり、うち5%は州政府に許可料として支払われた。失業者の多かった一時期に、 コアラが果たした経済的効果は無視できないものがあったと言える。

しかし解禁期終了後、抗議運動は保護運動へと発展し、コアラ指定保護区の先がけ となる動物園が設立されるに至った。こうした運動の結果、オーストラリア東部では 絶滅が食い止められたが、南部では、最初から住みついていたコアラは1930年代初め までに絶滅してしまった。

W.コアラと芸術、文学

◆愛らしいイメージ

20世紀ごろには、作家や画家がコアラを題材にした作品を多く手がけている。発見当初は謎の生物だったが、このころには愛らしい動物としての人気を確立していた。事実、ある新聞の投書には、コアラが愛されていると分かるものがいくつもある。そのようなコアラを作品に登場させない手はなかった。

◆諷刺精神

多くの場合、コアラは物語の主人公として登場し、自由の象徴、個人主義の象徴であった。コアラの主人公としては有名なドロシー・ウォール作のブリンキー・ビル にもその傾向は見られる。この背景には、その当時、オーストラリアがイギリスから 独立を果たし、植民地が連邦としてまとめられていった時代であったことが考えられ るだろう。

X.保護と未来

◆病気の正体

コアラは狩猟によって数を減らしただけではない。1900年から1903年の間には 病気の蔓延によって100万単位でコアラが死んだという記録も残されている。コアラ の病気の中で目立つのは長らくピンク・アイと呼ばれていたものである。目や膀胱の 感染症などを引き起こし、やがては死に至るこの病気は、1970年代になって初めて クラミジアによるものであることが判明した。

◆移住作戦

コアラを取り巻く問題はまだある。それは土地開墾や森林伐採ですみかが減ることだ。これを解決すべく1920年前後からコアラの移住が行われていた。しかし大きな問題があった。それは消耗性症候群と呼ばれるもので、コアラをある地域から別の地域に移すと、急に体重が減り、体力が無くなり衰弱するというものである。原因はストレスなどが考えられるが詳しくは不明で、多くの場合は死に至った。こうした状況を受けて、たとえコアラの分布を広げるためであっても、人間の干渉を最小限にして自然の成り行きに任せるべきだという意見も出ている。

◆コアラエイズ

コアラの間で蔓延している病気にクラミジアがあげられるが、近年になってコアラエイズというものも蔓延していることが分かった。クイーンズランド州サンシャインコーストにあるオーストラリア動物園付属の動物病院では、年間700頭のコアラが運び込まれ、そのうちの半数以上がコアラエイズの症状を呈している。

◆個体数の激減

1976年に、オーストラリアじゅうの専門家による会議が開かれた際には、コアラの数は極端に少ないというわけでなく、絶滅の恐れはないということで意見が一致していた。

しかし、オーストラリアコアラ基金の研究報告によれば、2010年までの6年間で国内のコアラの生息数は10万頭から4万3千頭弱にまで減少しており、何も手を打たなければ30年以内に絶滅するおそれがある。そのため現在も絶滅危惧種への登録を働きかけるなど様々な保護活動が行われている。

参考文献

Ann Moyal, Koara:A Histrical Biography,(Canberra 2007)

ウォルター・ハミルトン、ヘミッシュ・マクドナルド(越智道雄訳)『コアラの本 恥ずかしがりやの人気者』サイマル出版会,1984年


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