第9章 現代のオーストラリア
―1973-2010―

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White or Colorful?

1970年代以降オーストラリアは、非ヨーロッパ系移民に対する差別的な移民政策を撤廃し、多文化主義の時代へ移っていく。1973年に始まるホイットラム政権は、多文化主義を推進する政策を打ち出した。これにより、アジア系移民が多く流入してきた。またベトナム戦争の難民を受け入れたことにより、オーストラリア社会に以前から存在していたアジア系社会が大きくなった。アボリジナルなどの先住民族の権利の獲得も行われた。経済の面では、イギリスがヨーロッパ共同体に接近したことにより、オーストラリアはこれまでのイギリスよりも、アジアとの関係を強化するようになった。

しかし、90年代になると自由党のハワード首相は移民や難民に対して不寛容な行動を取った。また、オーストラリアの先住民族の権利に対しても批判的な態度を取った。さらに、白豪主義的な社会を復活させよう思っていたポーリン・ハンソンが民衆に支持されるようなこともあった。

このようにオーストラリアは多文化社会を形成しつつも、それに反する様ざまな出来事も起こってきた。現代オーストラリア社会の変遷を見ていこう。

本文

T.移民・難民政策

◆ポイントシステムの導入

ホイットラム政権は移民政策において、人種を基準とした移民審査を廃止し、移民の個人能力を重視した選別方式「ポイントシステム」を採用した。これは個人の様ざまな能力、例えば年齢、教育水準、技能熟練度、職歴などにポイントを設定し、合計ポイントの高い移民を優先的に受け入れるというものであった。ポイントシステムにより、優秀なアジア人が高いポイントを獲得して合法的オーストラリアに移住してくるようになった。

◆インドシナ難民の流入

1975年に南ベトナムのサイゴンが陥落し、実質的にベトナム戦争が終了すると、南ベトナムから大量の難民が出現した。このことでオーストラリアも難民受け入れを宣言し、アジア系難民を初めて受け入れることとなった。

フレーザー政権時に、ベトナムからのボートピープルの流出は最悪の状況となった。オーストラリアは東南アジアのASEAN諸国に比べ、インドシナ難民を受け入れてこなかったので、受け入れ人数の小ささを批判された。政府は、チャーター機を用意して、ASEAN諸国の難民キャンプからベトナム難民を引き取った。しかし、ASEAN諸国は、オーストラリアは優秀な難民を選別しているという非難を行い、英語もできず、教育程度の低い難民を組織的にボートピープルとしてオーストラリアに送り出すという実力行使に打って出た。このためオーストラリアは難民の受け入れを拡大し、年間に一万人以上を受け入れるようになってから、ASEAN諸国の圧力はなくなった。難民の大量受け入れにより、アジア系移民のコミュニティが増大し、多文化主義に大きな影響を与えた。

◆家族呼び寄せプログラム

最初はヨーロッパ大陸系移民の要望で、配偶者や子供、婚約者、両親を呼び寄せることを許可した。ポイントシステムで移住してきたアジア系移民が祖国に残してきた家族をこのプログラムを利用して移住させた。ホーク政権時に、このプログラムは拡大し、英語力の有無にかかわらず、就職先が用意されていることを条件に、成人した兄弟姉妹、扶養義務のない子供までも呼び寄せを許可した。

◆防御、阻止、収容の政策

1989年以降、オーストラリア政府はボートピープルに対して、「防御、阻止、収容の政策」で対応した。国境を防御し、ボートピープルを阻止し、上陸した人びとを強制的に収容する政策である。これが厳格化するのは自由党のハワード政権の時からである。アフガニスタンからの難民申請者であるボートピープルを、東南アジアからの人間密輸業者が手配したボートにやってきた偽装難民と見なし、強制収容所に入れた。

2001年にタンパ号事件が起きた。インドネシア領海で沈没寸前の漂流船から、400名を超えるアフガニスタンから逃れてきた庇護申請者がノルウェーの貨物船のタンパ号によって救出された。彼らはクリスマス島への上陸を希望していたが、オーストラリア政府によって断固拒否され、ニュージーランドやパプアニューギニア、ナウルなどに引き取らせた。

一時保護ビザも導入された。ビザを持たずに入国した庇護申請者は難民として認定されれば、永住資格が与えられていたが、1994年以降三年間の期限付きビザしか与えられないことになった。さらに、家族の呼び寄せや、オーストラリアを出国した際の再入国、社会保障サービスを利用する権利も制限されることとなった。

ハワード政権時には、高度職業、高度教育有資格者や資本家、企業家移民を受け入れる傾向を強め、難民の受け入れという人道主義的プログラムを抑制、永住中心の移民政策を修正、短期労働者の移民の導入も始まった。経済的弱者である難民よりも経済的強者の移民が増加すると、社会保障のサービスへの支出や、移民の文化、言語、宗教を維持するのも自主的な努力が促され、国の財政負担は小さくなった。

ケビン・ラッドに続いて2010年6月に首相になったジュリア・ギラード労働党政権は、ハワード元首相ほどではないにしても、国境警備には力を注いでおり、現在のオーストラリアも難民に対しては不寛容な態度を示している。

U.アジア・太平洋国家

◆アジアとの一体化

1973年にイギリスのヨーロッパ共同体(EC)の加盟によって、イギリスにはオーストラリアを潤すほどの経済力を持っていないことは誰の目にも明らかになった。輸出面や輸入面でイギリスなどのヨーロッパ諸国から高度成長を達成していた日本への依存が増高まっていった。

ホーク政権からキーティング政権にかけて、移民社会におけるアジア系の割合の増加、輸出市場におけるアジア市場の拡大、日本に加えて東アジアの新興工業地域(NIES)の勃興、中国の改革開放路線の推進、ASEANの工業化が起こったので、アジアとの関係をより密接なものにし、オーストラリアの経済的豊かさを維持しようとする政策がとられた。

◆ケアンズ・グループ、アジア太平洋経済協力会議

ホーク労働党政権は、オーストラリアが主導しつつ自らの利益を増やす場を世界貿易の再編に求めていた。先進国と発展途上国の利害を調節し、世界貿易に影響力を行使しようとしたのである。

ケアンズ・グループの目的は農産物貿易の自由化交渉であり、農業を基幹産業とする国が欧米先進国に対して有利に交渉を進めることにあった。欧米先進国のGATT体制を破り、オーストラリアが主導して、新たな世界貿易体制を作り出そうとした。

ケアンズ・グループを背景にして、ホーク首相はアジア太平洋経済協力会議(APEC)を1989年に結成した。APECの目的は、アジア太平洋地域における自由貿易化を推進し、オーストラリア経済の周辺化を避け、一次産品輸出国の利益を損なわないようにするものであった。参加エコノミーは、北米自由貿易協定(NAFTA)地域、日本、中国、韓国、台湾などの北東アジア経済圏、ASEAN諸国、ニュージーランド、南太平洋島嶼国で構成された。1993年に非公式首脳会議がアメリカで開催されて以来、年中行事としてAPECは開催されている

◆共和国化キャンペーン

キーティング労働党政権時の1992年に、アジア太平洋国化の一環としてオーストラリアの共和国化が叫ばれた。アジア、太平洋諸国が経済の発展に伴って、脱植民地化が進められており、アジア太平洋諸国との関係を強化するためにはオーストラリアも過去の植民地時代の遺物である立憲君主制を廃止することが求められたのである。

ポーリン・ハンソンが登場し、反多文化主義的な運動が起こると、その余波が1999年の共和国への国民投票に少なからず影響し、また、当時のハワード首相が共和国への移行に反対であり、国民投票にかけられた共和制モデルは、議会が選出した大統領が女王と交代するという最小限のものであったため、保守的な人びとやより急進的な改革を求める人びとは共和制への移行を拒否した。

◆アジア太平洋国家化に慎重なハワード自由党政権

ハワード首相は、今までの労働党政権のオーストラリア主導の外交政策を修正した。対米追従外交に復帰するとともに、大国軍事外交政策の補助的な役割を自ら引き受けた。1999年のインドネシア領東ティモールの独立をめぐる争いの際には、多くのオーストラリア軍兵士が当時バルカン問題で忙しかったアメリカに代わって太平洋地域の安全保障を担うようになった。

慎重な姿勢は難民に対しての不寛容な態度にも表れている。1998年以降急増するアフガニスタン難民申請者のボートピープルへは強硬策を行使した。

V.国内政策

◆国内経済改革

日本以外のアジア地域の工業化が進むにつれ、オーストラリアは経済競争にさらされることになり、オーストラリア経済全体の強化が求められるようになった。

1980年代のホーク労働党政権時に経済の国際化と規制緩和が始まった。最初に、為替の変動相場制への移行、国内金融制度の自由化、外国銀行参入の許可が行われ、経済の国際化が始められた。ホーク政権の後半からキーティング労働党政権にかけては公営鉄道や航空会社、国有銀行の民営化や電話、通信事業の独占廃止が行われた。オーストラリアの民営化は電力、水道事業、航空事業と関連する空港などにも及んでいった。

ハワード自由党政権は労働党政権の経済改革を引き継ぐ形を取り、さらなる市場経済化を追求し、経済構造改革を行った。医療制度の改革や労働組合権利の制限、教育制度の改革、労働者の技術の獲得の場の提供などを行った。1997年のアジア経済危機がオーストラリアに影響を与えなかったことは、新しい経済システムの信頼と自信を高めることとなった。

◆アボリジナル政策

1972年のテント大使館撤去に見られるように、自由党政権がアボリジナルに土地権を認めなかったのに対して、ホイットラム労働党政権はアボリジナル問題担当相を新設し、アボリジナル関連予算を拡大した。ホイットラム政権は土地権を含めたアボリジナルの社会基盤の回復と政策決定への参加システムの構築を試み、土地権に関する諮問委員会や全国アボリジナル審議会を設立した。これらの設立によりアボリジナルの自主決定が促進されるようになった。

1992年、オーストラリア連邦裁判所は、イギリスがオーストラリアを領有化をする以前は、土地の所有者はいなかったとする「無主地」の概念を否定した画期的な司法判断を下した。この判決は、原告のエディー・マボウの名前を取って「マボウ判決」と呼ばれている。このマボウ判決を受けて、1993年には先住権原法が成立し、アボリジナル共同体の慣習法に基づく土地利用、管理に法的根拠が与えられることになった。先住権原法はすでに私有地となっている土地や農牧業、商業用の借地となっている土地については先住権原が消えているとしたが、1996年のウィック判決は、借地においても先住権原は消えないという判断を下した。

ハワード自由党政権時の1998年には、ウィック判決の無効化をするための先住権原修正法案が成立し、先住権の後退が図られた。ハワード首相は、20世紀前半から半ばにかけてアボリジナルの子供たちをヨーロッパ人社会に同化させるために親元から引き離した、親子強制隔離政策に対する公式の謝罪を拒否した。しかし、ハワード自由党政権に対し、ラッド労働党政権は、親子強制隔離政策に対し、政府として公式に謝罪をした。

W.反多文化主義の動き

◆ポーリン・ハンソンの登場

産業再編、企業の合理化によるリストラによって職場を失う労働者は、1980年代から増加し、92年に失業率は11%を超えた。オーストラリアの共和国化キャンペーンによって伝統的文化が崩壊するのではないかという不安や、アジア系移民の専門職従事者や企業家移民が増加する中で、オーストラリア人はアジア系移民に仕事を奪われるだけでなく、文化的統合が難しくなったり、社会的分裂が生じたりするのではないかという不安が生じた。このような中でポーリン・ハンソンは登場した。

ポーリン・ハンソンは英語系の人びとが失業で苦しんでいる時に、多文化主義のもとでアボリジナルに対する政策が拡充していることや、アジア人の移住と定住援助の拡充は英語系の人々への逆差別であると主張し、アジア系移民の制限や、反アボリジナル政策、反マボウ判決政策を展開した。

ハンソンのワン・ネイション党は1997年に旗揚げされ、98年6月に最大15%の支持を受けたが、ハワード首相はアジア系移民の増加は国益にかなうものであり、ポイントシステムによる移民の受け入れは財政の負担にはならないと国民を説得できるようになると、ハンソンの支持は急速に低下し、ハンソンは2001年には議員を退職した。

参考文献


山本真鳥編『オセアニア史』山川出版者、2000

藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣、2000

藤川隆男『猫に紅茶を〜生活に刻まれたオーストラリアの歴史』大阪大学出版会、2007

竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』中公新書、2000

竹田いさみ、森健、永野隆行編『オーストラリア入門第二版』東京大学出版会、2007

飯笹佐代子『シティズンシップと多文化国家』日本経済評論社、2007


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