第2回 定例研究会 報告@ (2011 / 09 / 10)


報告者: 藤井 真生

聖ヴァーツラフ崇敬の形成と変遷




0、中世チェコにおける聖ヴァーツラフ崇敬
    ・ チェコの民族的守護聖人 ( 今なお国家の祝日 )
    ・ 10 世紀の大公であり、その後、王朝によってさまざまに崇敬・利用される
    ・ 中世における聖ヴァーツラフ崇敬のあり方を 10 世紀 〜 15 世紀まで概観する



1、大公ヴァーツラフの生涯
  (1) 史料状況
     @ 『 ザクセン諸王朝の歴史 』 …… 執筆者 : コルヴェイのウィドゥキント ( 成立 : 967/68 年 )
         「( ハインリヒ 1世が )全軍を率いて、チェコ人の城 プラハへ攻め込んだ。 彼らの王の臣従を受け入れた。 彼についてはいくつかの
         奇跡が語られているが、自分ではよく知らないので黙しておくことにする。 彼はボレスラフの兄弟で、生きている間は、皇帝に忠実
         で有用だった。 このとき王はチェコ人に貢納を負わせ、ザクセンに帰還した。」
         「蛮族 ( チェコ人 ) がその間に新たな反乱をおこした。 ボレスラフはキリスト教徒である兄弟を殺害した。 伝承によれば、( 殺害
         された兄弟は ) 非常に敬虔な人物であった。 隣接する 「副王」 を恐れていた。 なぜなら、ザクセン人の命令に従い、彼に宣戦
         布告したからである。」
     A 各種聖人伝 …… 後述
     B 『 コスマス年代記 』 …… 執筆者 : プラハ聖堂参事会長 コスマス ( 成立 : 1125 年 )
                     先行年代記、聖人伝群を参照

  (2) 略伝   [ →  図 1  ]
     903/04/07/08/10  父 ヴラチスラフ、母 ドラホミーラ ( 祖父 ボジヴォイ、祖母 ルドミラ )
                   修道院生活? 祖母のキリスト教養育 ( ←→ ボレスラフの異教養育 )
     920/21  父 ヴラチスラフ死去 → 母の後見
            祖母 ルドミラ殺害 → 聖人視、嫁 ドラホミーラが犯人?
     929/35  9 月 28 日 : ヴァーツラフ暗殺 → 子孫の有無?
     932/38  3 月 4 日 : ヴァーツラフの遺体の移送 → 殺害者 ボレスラフ ( 弟 ) による
     @ ボレスラフ ( および有力者 ) との対立が、キリスト教受容をめぐるものと理解された
     A 10 世紀後半には聖人伝が成立し、貨幣などにも図像が使用される
     B しだいにチェコ民族の危機を救う守護聖人としての性格を強める
     17 世紀にカトリック教会のカレンダーに登録 ( 列聖は? )

  (3) 10 世紀チェコの国際関係   [ →  地図 1  ]
     @ バイエルン大公家と同盟関係
       → ザクセン朝 ハインリヒ 1世の遠征、臣従、貢納
           ( ボレスラフ 1世の放棄、降伏 )
       バイエルン 家  ―  プシェミスル 家  vs  ザクセン 家  ―  スラヴニーク 家  ―  ピァスト 家
          親ザクセン路線への変更をめぐる対立
     A レーゲンスブルク司教座への帰属   [ →  地図 2  ]
       → 972  プラハ司教座設置 ( マインツ大司教座所属 )
              初代司教 ジェトマル ( ザクセン人 : 3 代、4 代も )
       2 代目司教 ヴォイチェフ ( スラヴニーク家 ) ・ マクデブルク
       ストラフクヴァス ( ボレスラフの息子 ) ・ レーゲンスブルク  でそれぞれ学ぶ



2、聖ヴァーツラフ崇敬の形成
  (1) 聖人伝   [ →  図 2  ]
     教会スラヴ語
        @ 第一 聖ヴァーツラフ伝
           10 世紀半ば
           クロアチア (?) やルーシ (?) に写本が伝わる、製作者不明
        A 第二 聖ヴァーツラフ伝
           11 世紀半ば
           製作者不明
     ラテン語
        @ 聖ヴァーツラフの生涯と殉教  (Crescente fide = CF)
           970 年代 ← プラハ司教座設置との関係?
           レーゲンスブルクの聖エメラム修道院関係者
        A 聖ヴァーツラフと祖母、聖ルドミラの生涯と殉教  ( Legenda Christiani = LC )
           12 世紀半ば (?)、10 世紀末 (?)
           レーゲンスブルク司教座 (?)、ブジェヴノフ修道院 (?)、ボレスラフの息子 (?)
        B 聖ヴァーツラフの伝説  ( Oriente iam sole = OS )
           1270 年代
           製作者不明
        レーゲンスブルクの聖職者団とプラハの結びつき

  (2) 崇敬推進者の背景
     @ ヴァーツラフの子孫は?
         『 第二 聖ヴァーツラフ伝 』 によれば、周囲に結婚を強制され、ズブラスラフを残す (?)
         しかし、他の史料にはいっさい登場せず
           → その後のプシェミスル家の血統はボレスラフの子孫   [ →  家系図 1  ]

     A 弟 ボレスラフ1世か?
         殺害の犯人(とみなされている)とはいえ、同じプシェミスル家の一員
           ← 聖人伝によっては、母 ドラホミーラの位置づけが180 度異なる
         ただし、ボレスラフを肯定的に評価する資料はいっさい存在しない
         自身がイニシアチヴをとって崇敬を推進した場合、悪評をそのまま載せるのか?

     B レーゲンスブルク聖職者団
         グンポルト 『 聖人伝 』 はオットー 2世の宮廷で成立、レーゲンスブルクの聖職者
           ← 当初、プラハ ( チェコ ) はレーゲンスブルク司教座所属
             ヴァーツラフ死後に聖職者団がいったん国外追放になった可能性

  (3) 貨幣への登場   [ →  図 3  ]
     11 世紀初頭   貨幣に登場 ( 裏面 )
     11 世紀半ば   モラヴィアでも
     12 世紀半ば   「 大公 ヴラジスラフの手による聖ヴァーツラフの平和 」 銘
              → 国王戴冠  「 聖ヴァーツラフの手による国王ヴラジスラフの平和 」 銘
     13 世紀初頭   同上 ( プシェミスル・オタカル 1世 )
     13 世紀後半   プシェミスル・オタカル 2世の変更 : 裏面も国王の騎馬像
              → 聖ヴァーツラフ崇敬との対立? 
                オーストリア諸邦への配慮?



3、聖人をめぐる奇跡の変遷   [ →  表 1  ]
  (1) 聖人伝において
     @ 足跡の温度 ( 生前 )
     A 天使の付添 : 対コウジム公、皇帝宮廷 ( 生前 )
     B 自身の死の予知 ( 暗殺時 )
     C 血の痕跡 ( 暗殺時 )
     D 渡河 ( 移送時 )
     E 傷の完治 ( 移送時 )
     E 囚人の解放 ( 死後 )
     F 病人の治癒 ( 死後 )
        → 他の聖人との類似 : 理想的禁欲・修道士的な生活

  (2) 13 世紀まで
     @ 1002  プラハ城解放             
     A 1091  囚人の解放 : 大公父子の争いの仲裁
     B 1126  ドイツ皇帝との戦い
     C 1132  ポーランド遠征
     D 1260  ハンガリー王との戦い
       聖ヴァーツラフの槍、聖プロコプの軍旗、白い大鳥 ( 鷲 )、白馬に跨った白装束の聖人
       → 他の守護聖人との違い ( 聖プロコプ ) : 「 民族の守護者 」、「 永遠の君主 」
     「切っ先鋭い槍の上に聖ヴァーツラフが見えるぞ。 白い馬に跨って、白い衣装を纏い、我々のために戦っている。 君たちにも見えるだろう!」
     「軍の後ろで見張りに立っていた数人が、戦いが始まった頃に、鷹に似ているが雪より白く、頭と喉が金色の鳥が、ぴったりと聖ヴァーツラフ
     ―― かつての大公であり、チェコの永遠の守護者、栄えある殉教者 ―― の旗を追っているのを目撃したらしい、と多くの者が語っているか
     らである。 彼らには、その胴と翼が戦いに向かうキリスト教軍全体を覆うほどに、どんどん大きくなっているように見えた。」

  (3) 14 世紀以降
     @ 1305  ヴァーツラフ 3世の誓約 : 聖人の頭蓋骨
     A 1318  ドイツ軍に対する勝利
     B 1322  ミュールドルフの戦い
            ヴィッテルスバッハ家 + ルクセンブルク家 vs ハプスブルク家
     C 1339  職人の聖人冒涜 ( ドイツ人 )
     D 1347  言葉の回復
     E 1351  盲目の少女、手足の不自由 ( フランク人 )
     F 1364  オロモウツ司教の昇任
     G 1366  ヘルニア
        → 弱者救済イメージの再登場



4、カレル 4世の聖ヴァーツラフ崇敬
  (1) 聖人伝執筆
     @ 父 ヨハンはルクセンブルク家出身で、母 エリシュカを通じてプシェミスル家につながる
     A 最初の名はヴァーツラフ ( フランス宮廷でシャルルに改名 )
     B 『 聖ヴァーツラフ伝 』 をカレル自ら執筆 ・・・ 良き統治者としての姿
     C カレルの 『 聖ヴァーツラフ伝 』 は LC に依拠
     D カレルの 『 聖ヴァーツラフ伝 』 に依拠して、『 プルカヴァ年代記 』 が執筆される
     E 他の年代記も執筆依頼

  (2) 造形   [ →  図 4  ]
     @ 1344  聖ヴィート大聖堂の改築 : 聖ヴァーツラフ礼拝堂の増設
     A 1346  王冠の作製
     B 1348  カルルシュテイン城の建設
     C 1366  プシヴィスラヴァ ( 妹 ) とポジヴェン ( 従者 ) の埋葬
     D 1372  聖ヴァーツラフ礼拝堂の装飾

  (3) 王国と帝国の伝統
     @ 聖ヴァーツラフ崇敬の推進   [ →  図 5  ]
       チェコ諸邦外へ拡大 : シレジア、 チロル、 フランケン、 ラウジッツ、 ブランデンブルク
     A カール大帝への崇敬
       プラハ新市街に教会を設立・奉献
         ←→ アーヘンの教会に聖ヴァーツラフの祭壇を創建 ( インゲルハイムにも )
       ルクセンブルク家は母系を通じてカール大帝につながる (?)
         皇帝として帝国での支配の正統性
       双方の血統への配慮と利用



5、フス派時代の聖ヴァーツラフ
  (1) フス派と聖人崇敬
     @ フス派も聖ヴァーツラフは崇敬している
         ← 例外 : 初期のターボル派 ( 急進派 ) : すべての聖人崇敬を否定
     A 勝利を願う
       1420  プラハ攻防戦
       1426  ウースチーの戦い
     B 神と聖ヴァーツラフを称える / に願う
       1436  イフラヴァでジクムントと最終的な協約を結ぶ ( = フス戦争の終了 )
       1458  チェコ貴族によりフス派貴族イジーが国王に選出される
       1526  ハプスブルク家のフェルディナンドが国王に選出される

  (2) ヤン・フスと聖ヴァーツラフ
     @ ベツレーム礼拝堂で聖ヴァーツラフの讃美歌 ( 移送日前夜 )
     A 「 中傷 」 に対する弁護
        「私が聖ヴァーツラフについて、聖人ではないかのように話していると言いふらす輩の策略に悩まされている。」
     B 説教に取り込む ( 祝日の利用 )
        他のフス派指導者たちも同様の態度
        ターボル派司祭 ペルフシモフのミクラーシュ
          「どうか助けてください、我らを憐れみたまえ、悲しみを慰め、すべての悪を追い払いたまえ、聖ヴァーツラフよ。」
        ただし、カトリックも
          「聖ヴァーツラフ、我らの公よ、神よりその力を与えられ、憐れみたまえ、ウィクリフ派を追い払いたまえ、多くの
          悪事をなす者どもを。」



6、まとめ
  @ 暗殺から数世代たってから、プシェミスル家による崇敬推進がはじまる
  A プシェミスル家からルクセンブルク家へ交代しても立場は変わらず、むしろ強化される
  B フス派時代も民族的守護聖人の地位を維持し、その後の王朝にも崇敬される


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 史料&参考文献.pdf


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地図1 中世チェコをめぐる国際関係



地図2 中世中欧の大司教座・司教座





図1 聖ヴァーツラフの生涯

1−@ 従者とともに水を汲み、パンを焼く聖ヴァーツラフ


1−A キリストより王冠を授かる聖ヴァーツラフ


1−B 弟ボレスラフによる暗殺



図2 聖人伝の系譜関係




図3 聖ヴァーツラフ像を用いた貨幣





図4 聖ヴァーツラフ崇敬に関わる造形

4−@ 聖ヴィート大聖堂内聖ヴァーツラフ礼拝堂の像


4−A カルルシュテイン城聖十字架礼拝堂 中央下段:カール大帝 その右:聖ヴァーツラフ


4−B 聖ヴァーツラフの頭蓋骨


4−C 聖ヴァーツラフの王冠



図5 チェコ外での聖ヴァーツラフ崇敬

ニュルンベルク聖母教会の聖ヴァーツラフ像



家系図




表1 聖人伝と年代記における聖ヴァーツラフの奇跡



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