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概要
西洋文学の理想の教科書作成プロジェクト
西洋文学語学講座では、すでにフランス文学、アメリカ文学分野で、院生を活用した教科書作成事業を始めていたが、今回のプログラムを機に、ドイツ文学分野もふくめ、さらに積極的に院生の教育を主眼とした事業を展開している。具体的には、教科書作成を最終の目標にしつつ、書物作成にいたる諸問題のありようを、出版社との交渉、学生の反応への対処などを含め、実践的に体得してもらうべく、授業科目へ組み込むなど、教育・実践両面において実地教育を実践しつつ、かつ、教科書発行という具体的な成果を挙げることを目標にしたプログラムを実践している。以下に、個別領域ごとに実践報告を掲げておく。
フランス文学
フランス文学小事典プロジェクト
フランス文学専門分野では「魅力ある大学院教育イニシアティブ」の一環として、教員と大学院生が共同して「フランス文学小事典」を作成する。この小事典のコンセプトは、(1)フランス文学に関心を持つ学生・一般向きの事典であること、(2)ハンディサイズであること、(3)代表的な作家、作品、事項を簡潔に解説すること、である。近年フランス文学の事典は出版されたことがないため、最新の正確な情報を盛り込むこと、また現代の学生たちにとって親しみやすい内容と体裁にすることに留意する。またフランス国籍の作家のみではなく、フランス語によって執筆している作家も幅広く採用すること、さらには現代作家、現代詩人にも少なからぬ項目を充て、フランスの現代文学事情の紹介をもめざしている。なおフランス語フランス文学関連の教科書出版に実績のある朝日出版社に同事典の出版を依頼している。
作成は以下のような手順で行う。
- 平成17年12月
- ・ 教員スタッフおよび朝日出版社の担当者による編集会議(編集方針、作成スケジュール等を検討)
- 平成18年1月〜3月
- ・ 各時代の担当者がそれぞれ作家・作品・事項を選定
- ・ 第2回目の編集会議(項目の決定、重要度による分類、執筆方針)
- ・ 学生が執筆する上で参考にすべき文献目録を作成
- 平成18年4月〜
- ・ 「教科書作成演習」開始、執筆担当者の決定
- ・ 形式上の統一のための詳細な執筆要綱および範例を作成
- 平成18年7月
- ・ 作家項目の1回目の執筆を完了
- ・ 学生スタッフと教科書演習担当教員による校閲と執筆者による修正
- 平成18年8月〜9月
- ・ 教員スタッフによる校閲
(今後の予定)
- 平成18年11月末までに学生と教員による校閲および修正作業を終了
- 平成18年12月〜19年1月までに最終点検
- 平成19年1月末入稿
- 平成19年3月末出版
現段階においても、小事典作成プロジェクトの大学院生に対する教育意義は極めて高いと思われる。各自が研究している作家、作品とは異なる対象の調査を行うことにより、研究の幅が広がること、各自が執筆した原稿をお互いに批評しあうことによって、記述の明快さ、論理性、客観性、バランスのとれた文体、言葉の厳密な選択、など文章に対する意識が高くなったこと、さらには個人ではなく、共同の名のもとに出版することにより、他者が書いたものに関しても責任感を感じるようになっていることなどが教育上有意義である。何よりも自らの手で形のあるものを作り、それを公にできる喜びは大きく、ともすれば受動的になりがちな通常の授業よりも、学生たちの積極性、熱意が大いに高まっていることは特筆に値する。問題点としては、学生間で作業量に差が生じることである。完全に均等にすることは困難であるが、学生たち自身が互いに役割を割り振ることによって、ある程度は是正している。また学生による共同の校閲作業には多大な時間がかかることも問題かも知れない。効率よく進めるように努力しつつも、校閲を簡略化することはできず、時間をかけざるを得ない。限られた時間内で遂行すべき作業なので仕方がないが、修士論文、博士論文の執筆に支障をもたらさないよう配慮することが必要になる。
ドイツ文学
「ドイツ文学教科書作成」の取り組み
文学・語学系の「大学レベルの教科書、副読本作りへの参加を通じて、研究成果の要約・解説の訓練を施す」というプロジェクトの一環として、ドイツ文学専門分野でも2005年秋から、主に共通教育向けの「ドイツ文学入門のための教科書」を作成するという目標を掲げた。2006年度に大学院博士前期課程・後期課程学生のためにドイツ文学演習の授業科目枠で「ドイツ文学教科書作成演習」(火曜日2時限 前・後期 担当:林)を開講している。前期は、博士前・後期課程の併せて8名の院生が履修し、計画に参加している。研究のスタートラインに立ちこれから本格的にドイツ文学研究の世界に入って行こうという院生たちに、教科書作成というきわめて具体的な実践的課題を与え、自分の研究分野(テーマ)という限定された範囲にとどまらずドイツ文学全般に関する知識を拡げ深めると同時に、自分の専門研究に求められているものをより大きな社会的文脈の中に位置づけること、そうした取組み通じて研究者としての自覚と能力を培うというのが授業の主眼である。
討議の結果、とりあえず目標として設定した私たちのプランは、次のようなものである。
『【フロー・チャート(流れ図)と図像でわかる】
面白くて役に立つドイツ文学史(中世から現代まで)』の作成
- 共通教育学生・高校生を中心に、一般読者にも楽しく読めるドイツ文学史。
- 時間軸(通時的)と空間軸(共時的)で立体的に構成されたフローチャート(流れ図)で文学史の全体像・部分像を提示する。
- 詩人、時代思潮、事項について記述する場合も、かならず文学作品のテクスト(日本語またはドイツ語)の抜粋(さわり)を示し、テクストという窓を通してドイツの文学・歴史・社会の生き生きとした具体的な姿が理解できるようにする。
- 基本的には時系列的に叙述するが、そこに「貴族と市民」「都市と農村」「家族と世代」「ジェンダー」「恋愛」「風景の変容」などのテーマを絡ませるとともに、多様なメディアのクロスオーバー(文学・音楽・演劇・絵画・新聞・雑誌・ラジオ・テレビ・映画・写真など)にも眼を向ける。
- できるだけ多くの図版を収録する。(挿画、写真、イラスト漫画、流れ図など)
- さまざまな領域からトピックスを拾い出して、「囲み記事」として挿入する。そのうちには「歳時記」的な記事、恋愛、旅行、自然、風景、徒弟制度、宗教(信仰)、市場、娯楽、交通、軍事、道路などなど。
- スケジュール案
- 4月〜5月:基本プランの作成
- 6月〜7月:掲載記事のサンプルの提示と討議。(1回につき2,3本)
- 7月22日:(土)樋口至宏氏 特別授業
- 8月〜9月:夏休み(履修者の個人分担記事の作成)
- 10月〜12月:編集作業
- 2007年2月 教科書完成
前期最後の7月25日の授業でこれまでの進展状況を総括し、また樋口氏の特別授業をうけて、私たちの計画の問題点を整理し、計画の練り直しを行った。
- 私たちの教科書に取り入れて活かすべき必要なもの
- 文学史的連関をフローチャートで示すこと。(印刷、出版上の問題)
- 具体的なドイツ語のテクストの抜粋を提示し、できる限り詳細な注解、鑑賞を付し、作品・作家・時代の生きた姿を浮かび上がらせる。また、そこで原作テクストの面白さ(例えば、間テクスト性の問題)を示すこと。
- 書誌情報の充実(日本の読者のための)
- テクスト内容の理解に役立つような図版の挿入。
- 私たちの教科書に取り込む必要のないもの
- インターネット、百科事典、文学史事典で検索できるような情報。
- 新しいプランの立案
- こうした議論を通じて、年度内の完成という時間的な制約も考慮して、次のような新しいプランを立案した。
これまで私たちの授業で取り上げたもの、さらに追加するものを含めて、ドイツ文学の代表的な作品(韻文、散文を問わず)のテクストのさわり部分をドイツ語で掲げ、それに注釈と鑑賞を付し、原作のドイツ語に触れることでドイツ文学をライブ感覚で学び楽しむことができるような教科書に変更する。必ずしもドイツ語作家を網羅的に取り上げるわけではないが、優れた原典テクストという窓を通して、ドイツの文学・文化・社会・歴史を垣間見ることができるような、特に共通教育・学部新入生向けのドイツ語中級テクストとしても活用することができるような教科書の作成を目指す。
アメリカ文学
『新世紀アメリカ文学史』改訂増補版作成への道
大阪大学大学院文学研究科でアメリカ文学を専攻する大学院生の力を結集した成果はすでに2004年10月に『新世紀アメリカ文学史』(英宝社)となって発刊されている。この本は従来の通史的記述を簡潔に試みたマップ、アメリカ文学/文化を11のキーワードで切った短いが本格的な論文と、典型的なテクストを注つきで相当量抜粋したキーワード、および、必須文献の解題、年表、文学賞データを網羅したデータの三部分からなる画期的な教科書である。出版されてから各方面から好意的な反応が寄せられ、教科書としての売れ行きもまずまずと聞く。 企画を始めた頃は、インターンシップの意識はそれほどなく、院生の研究の深化の一助となればという思いと、今までにない教科書を世に問いたいという考えでしかなかった。しかし、作業過程で、日本の英語教育、アメリカ文学教育の現状を調べることもでき、げんに編集に加わった院生のほとんどが非常勤として大学で主に一般英語を教えている状況下、教授者としてのスキルアップにつながったうえに、将来、専任として採用される際のトレーニングとしても、その教育効果は大きかった。 2005年度に「魅力ある大学院イニシアティブ」プロジェクトが発足し、西洋文学語学専攻での院生を軸とした教科書作りが目玉の一つになり、アメリカ文学分野では、新たなメンバーを加えて改定増補版を作成することを事業の中心にすえた。作業手順としては、
- 旧版の問題点の洗い出し
- 分野の充実
- データのアップデート
以上の点を目標に執筆担当を再考し、編集体制を強化した。
その結果、大幅な頁増による記述の厚みがましたこと、分野の偏りがなくなったこと、旧版の誤植等がほぼ払拭されたこと、最新のデータが満載されたことなど、類書に例のない出来栄えとなっている。ちなみに、本書の目玉と言うべきキーワード部分は以下のような強力な布陣となった。
(掲載順)「暴力・リンチ・カニバリズム」 E.Hemingway ,“The Killers”
「アメリカン・ドリーム」Horatio Alger, Ragged Dick
「アメリカニズム」K.Chopin, “Desiree's Baby”
「鉄道/車」R.Carver, “The Compartment”
「イニシエーション」S.O.Jewett, “A White Heron”
「スポーツとアメリカ文学」M.Chabon, “Smoke”
「スモールタウン」S.Anderson, “Sophistication”
「酔いどれアメリカ文学」H.B.Stowe, “The Coral Ring”
「都市のイメージ」A.Walker, “Fame”
「妊娠、中絶、近親相姦」T.Dreiser, “Typhoon”
「アメリカン・ゴシック」M.Twain, “A Ghost Story”

写真:『新世紀アメリカ文学史』表紙