第5回 定例研究会 (2011 / 12 / 10)


報告者: 鈴木 広和

ハンガリー王国 聖ラースロー伝承




 はじめに
   中世ハンガリー王国の聖王伝承の一つ
     聖王ラースロー1世と異教徒クマン人との戦いを題材とし、さまざまな要素を含む
   聖ラースローによる異教徒クマン人討伐の話 (ハンガリー人の娘を奪うクマン人との戦い)
     元になった史実は、王国に侵入したペチェネーグ人を撃退した 1068 年 ケルレーシュの戦

   何が伝承の核で、どのような要素が、いつ、いかにして取り込まれて、現在知られているいくつかのヴァリエーションが成立したのかは、
   現時点では不明

   研究史
     19 世紀以来、民族学、文学史、美術史、文化史、社会史などの様々な分野で国内外の研究者
        東方起源の要素を強調する古代史家、民族学研究者
        キリスト教的、ヨーロッパ的な要素を強調する文化史、文学史、美術史研究者

   ラースロー1世 (在位 1077−1095) の列聖
     初代国王イシュトヴァーン1世 (在位 1000-1038) の統治体制を固めた。
     1083 年にイシュトヴァーン1世を含む5人の列聖式
     1068 年 ケルレーシュの戦いにおいて、侵入してきたペチェネーグ人を破る
     列聖式 1192 年6 月27 日 Nagyvárad
        ベーラ3世が主導
           1163 年 〜 一時、ビザンツのマヌエル皇帝の宮廷で育つ

     列聖以後、13 世紀に聖ラースロー崇拝が広まったと考えられる (地方聖人)
     聖人伝としての 『 聖ラースロー伝 』 (大 ・ 小)
     聖人伝とは別に所謂 「 聖ラースロー伝承 」
        → 14 世紀に広まる



T 史資料
   (1) 主な記述史料 (14 〜 15 世紀)
     年代記
       ・Heinrich von Mügeln, Chronicon (1360 年頃) ドイツ語テキスト
       ・『 彩色年代記 』 (14 世紀後半) ラテン語テキスト+挿絵
       ・『 トゥローツィ年代記 』 (1488 年) ラテン語テキスト+挿絵
     聖人伝集成
       ・『 ハンガリー・アンジュー家聖人伝集成 』 (14 世紀前半) ラテン語テキスト+挿絵

   (2) 13 世紀末から 15 世紀まで、教会壁画 (フレスコ画) として盛んに描かれる
       現存するものの多くは 14 〜 15 世紀に当時の王国辺境地域の教会で作成されたもの



U 話の粗筋
   @ ハンガリー軍 (非重装) は Várad 城を出て、クマン軍と戦闘
   A ハンガリー人の娘をさらって逃げるクマン族長をラースローが追う
   B ラースローと族長は馬から下りて組み合う
   C 娘が族長のアキレス腱を切って、ラースローが勝利、族長の首を切り落とす
   D 木の下でラースローは娘の膝枕で休む

   @ Várad 司教座聖堂をラースローが建設、ラースローはここに埋葬された縁の地
   A Várad 城主の娘か?
          槍をもって追うラースローと、後ろ向きに矢を放つ族長
          槍を刺されても死なない不死身の族長
          娘が族長を馬から引きずり下ろす
          ラースローも下馬して族長と相撲 
   C 戦いは決着がつかない (二人とも不死身?)
          火を吐く族長の例
          傍らで馬どうしが戦う例 〜 族長の馬は火を吐くことも
          族長の唯一の弱点であるアキレス腱を娘が切断して決着
   D 木の下で傷ついたラースローを娘が癒す (頭をなでる/掻く)

   ≪ 小括 ≫
     壁画のモチーフ
     異教徒からキリスト教あるいは信者を守る聖人 = 騎士王の活躍
     クマン人は単なる外敵ではなく、異教徒、悪魔的な存在として描かれる
          火を吐くクマン人、火を吐くクマン人の馬
          聖ラースローとクマン人の色の対比

     異教徒を成敗するキリスト教騎士王とは関係がない要素もある。
          娘が族長の足/腱を切る、首を落とす



V 記述史料のテキストと挿絵
   (アンジュー家の意図)

   @ 『 ハンガリー・アンジュー家聖人伝集成 』 (14 世紀前半)
     カーロイ1世の息子アンドラーシュの (教育の) ために作られた
     【 挿絵とテキスト 】

     壁画との違い
          娘が聖母マリアだった


   A 『 彩色年代記 』
     14 世紀編纂年代記 (1358 年制作開始) のテキスト (途中まで) + 挿絵

     【 挿絵 】  娘は傍観するのみ
     【 テキスト 】
          壁画との相違  娘がラースローに対し、クマン人の命乞いをする。           [ → 史料@  ]



W 資料・史料間の相違 → 非キリスト教的要素
   @ 『 彩色年代記 』 および 『 トゥローツィ年代記 』 の記述では、娘と族長の関係示唆
     壁画では、娘はクマン人を倒す役割・活躍

   A 記述史料でもミューゲルンの年代記は、壁画と同じ内容                     [ → 史料A  ]

   B 15 世紀 イタリア人人文主義者ボンフィニの 『 ハンガリー史 』
     ラースローは直ちに馬からおりて、クマン人を殺した。
     ところがある者たちが言うには、娘は、ラースローと組み合っているクマン人に後ろから斧を打ち下ろし、救い人に協力した。
     それに対し、別の者たちが記しているところによると、娘は敵の命乞いをした。

   史資料間の不一致とは、娘とクマン人、ないし娘とラースローの関係をめぐる不一致と言える

   ≪ 非キリスト教的要素 (a) 略奪婚 ≫
     『 彩色年代記 』
        娘が族長と淫らな関係にあったため、王は族長と娘をともに殺す

     『 ロシア編年史 』
        1247 年  バツとラースローの戦い
          バツに連れ去られたのはラースローの姉で、バツの味方をしたため、王は二人とも殺した。

     民衆歌謡のテーマ
        娘の縁者が略奪者を追うが、娘は略奪者と結ばれる
        胸に抱かれての休息/頭の蚤とり/髪の毛を手ですく 〜 性的関係を象徴
       ハンガリーの民衆歌謡
          娘が略奪者と結ばれたあと、眠った略奪者を殺す例

   ≪ 非キリスト教的要素 (b) シャーマニズムの要素? ≫ 〜 東方起源?
        超人/勇者/シャーマンどうしの戦い (不死身の二人?)
        善×悪  白×黒  →  キリスト教勇者×異教徒
        しかし、白黒の対比 = 善悪の対比 はキリスト教世界、ヨーロッパでも知られていた



おわりに
   宮廷の意図と、社会とが共鳴した結果、多数、制作された可能性

   時代状況(背景)
     13 世紀 聖ラースロー崇拝の拡大
     14 世紀以降
       聖ラースロー崇拝の利用 〜 国王権威の強化

   宮廷に出入りする貴族の間にも、聖ラースロー崇拝が広まった
   教会守護者/壁画制作依頼者としての貴族
    ・大貴族
       カカシュロムニツ Rátót nembeli Kazai Kakas ( Gallus )  主馬頭
       バーントルニャ バーンフィ家 高位官職保有貴族
       ゲメルラーコシ ベベク・ラースロー 高位官職保有貴族

    ・大貴族の家人 (中貴族)
       セーケイデルジ ウンギ・イシュトヴァーンの息子パール

   画家/制作者集団
    ・著名な画家 Aquila János ( Johannes Aquila ) / オーストリア Radkersberg 出身
    ・地方の移動画家集団〜画家としての水準は高くない

   教会を訪れる民衆
     民衆の世界にも取り入れられる/受け入れられるモチーフ
     シャーマニズム的要素を感じ取った可能性も

   15 世紀以降の聖ラースロー崇敬
    ・ウィーン大学 natio Hungarica の名簿冒頭の図像
    ・トゥローツ年代記 (第2版、アウクスブルク版) の挿絵

     「 国民 」 聖人か?


ページトップへ ?

   【 『 彩色年代記 』 の記述 】
      聖ラースロー公は異教徒の一人が馬上に美しいハンガリー人の娘を乗せているのに気づいた。聖ラースロー公は娘はヴァーラド司教
    の娘だと思い、重傷を負っていたが大急ぎで 「 栗毛 」 に乗って追いかけた。槍が届くまで近づいたが突けなかった。というのも馬が疲れて
    いたのに、相手の馬は疲れていなかったからである。槍の先はあと少しでクマン人の背に届きそうだった。そこで聖ラースロー公は娘に
    向かってこう叫んだ。 「 美しき妹よ。クマン人の帯をつかみ、一緒に馬から落ちろ。 」 娘は言われた通りにした。クマン人が地上に伏すと、
    聖ラースロー公は近づいて槍で突き刺そうとした。そのとき娘は、殺さないで、許してと懇願した。このことから女性には信仰心がないこと
    がわかる。きっと淫らな思いから、クマン人を救いたかったのである。聖公はそのあと男と長いこと取っ組み合い、やがて腱を切り、殺した。
    しかし娘は司教の娘ではなかった。  【 挿絵では、娘は見ているだけ 】

   【 ミューゲルンの 『 年代記 』 】
      同じ日、ラースロー公は、異教徒が一人のとても美しい娘を後に乗せて馬で逃げるのを見た。急いで 「 栗毛 」 に乗ったが追いつけな
    かった。そこで聖ラースローは娘に大声で言った。 「 異教徒の帯をつかんで、一緒に地上へ落ちなさい。 」 娘はそうした。そして聖公ラー
    スローは地に倒れた異教徒に傷を負わせ、つぎに殺そうとした。そのとき異教徒起き上がって長いこと聖ラースローと取っ組み合いをした。
    なかなか勝負がつかなかったので娘は手斧で異教徒の脚を切り、異教徒は倒れた。ラースローは異教徒を髪をつかみ、娘は首を落とした。
    こうして王と公は捕まった娘を助け、喜び家に帰った。


ページトップへ ?

 史料&参考文献.pdf


ページトップへ ?
Copyright (C) 2011- 中世カトリック圏君主権の神話的・歴史的正統化