古墳が造られた時代

東アジア世界のなかで

4世紀に築かれた駒ヶ谷北古墳と5世紀の野中古墳では、副葬品の量や内容が著しく違うことがわかります。駒ヶ谷北古墳から出土した鏡のように、4世紀では中国王朝から入手した銅鏡が有力者の権威を象徴するモノでした。しかし、野中古墳から出土した桁外れな数量の武器・武具は、軍事力がモノを言う時期へと変化したことを示しています。

5世紀の東アジア勢力図
5世紀の東アジア勢力図
4・5世紀の東アジア世界は数多くの国家が興亡(こうぼう)する動乱の時代でした。中国は五胡十六国時代(ごこじゅうろくこくじだい、西暦304~439年)と呼ばれる乱世を経て、5世紀には北に北魏(ほくぎ)、南に南宋(なんそう)が建国され、魏晋南北朝時代となります。朝鮮半島では、北に高句麗(こうくり、)、南に百済(くだら)、新羅(しらぎ)、加耶(かや)などの国家が林立し、それぞれが南北の中国王朝と交渉しつつ、競いあいました。

高句麗の南下にともなう朝鮮半島南部の軍事的緊張や魏晋南北朝時代の幕開けといった新たな局面を迎えた東アジア情勢に対応する中で、野中古墳に象徴される軍事力や朝鮮半島各地とのつながりをもつ勢力が台頭してきたといえるでしょう。

さきにみた巨大な前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移動する時期は、ちょうど4世紀から5世紀に移り変わる時期です。そして、この時期には日本各地でいっせいに古墳を築造する地域が移動します(首長系譜の変動)。中央と地方が連動しながら古墳を築造する地域が動いていくとすれば、古墳時代の社会は中央の影響力が強く、列島規模で政治的なまとまりのはっきりした「国家」に近いものだったことになります。

文字記録に乏しい日本古代国家の形成には、まだまだ数多くの謎が残されています。しかし、野中古墳のような小さな古墳の調査から判明する歴史も少なくありません。考古学によって、日本古代の実像が浮かび上がってくるのです。