第1章 先住民の歴史
―太古-現代―

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悠遠の祖国

今からおよそ4万年前、まだオーストラリアがニューギニアと陸続きだったころ、人類がオーストラリアに到達した。オーストラリア先住民、アボリジナルの祖先である。彼らは主に採集・狩猟によって生活し、岩に絵を描く習慣をもっていた。その一部はカカドゥー国立公園の洞穴に現存しており、当時の生活様式やその変遷などを伝えている。

しかし、イギリス人の入植によってその生活は破壊された。1788年の入植開始以降、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や入植者との争いによってアボリジナルの人口は減少し続け、次第に社会の周辺へと追いやられていった。先住民としての土地権原が認められたのは、入植から200年以上も経ってからである。今ではアボリジナルの旗も国旗の1つとして定められ、先住民権原についての法整備も進んできたが、まだ社会が抱える問題は多い。

では、先住民の立場がどのようにして現状に至ったのかについて見ていこう。

本文

T.オーストラリア先住民とは

◆アボリジナルの祖先

アボリジナルの祖先は今から約5万年前に移住してきた。当時は海退と呼ばれる時期に当たり、現在と比べて120~150mも海水面が低かったのである。東南アジア・ボルネオ島・ジャワ島はスンダ大陸という大きな陸地であり、パプアニューギニア・オーストラリア大陸・タスマニア島もサフル大陸というひとつづきの陸地を形成していた。アボリジナルの祖先は、おそらくカヌーで海を渡り、移住してきたと考えられる。そして少なくとも4万年前には大陸の南部に到達し、生活を営んでいた。その痕跡はマンゴウ国立公園やカカドゥ国立公園に現存する。岩に描かれた直線や同心円のモチーフは現在のアボリジナルアートにも引き継がれるものであり、文化の持つ歴史の長さを今に伝えている。

◆トレス海峡島民

オーストラリアの先住民は、アボリジナルだけではない。1970年代からトレス海峡の島民が独自のアイデンティティを主張するようになり、現在では自治を行っている。この文章での「先住民」という表現は、アボリジナルとトレス海峡島民の両者を含んだ意味で用いている。

U.入植の拡大と先住民

◆白人から見た先住民

イギリス人は1788年に入植を開始したが、当初はあまり両者が接触することはなかった。総督は先住民と友好的な関係を保つよう指示を受けており、時折行われた贈り物の交換や、軽い威嚇などを除けばほとんど関わり合うことはなかったのである。

しかし、入植者の持ち込んだ伝染病は抗体を持たない先住民の間にまたたく間に拡大し、人口崩壊をもたらした。天然痘・梅毒・インフルエンザ・麻疹などによって、先住民の社会は壊滅的な被害を受けたのである。こうして先住民の力が弱体化する一方、入植者は次第に暴力的な侵略を始め、先住民の土地を収奪し始めた。彼らは土地を次つぎに開拓し、先住民を社会の周縁へと追いやった。

さらにイギリス政府は、オーストラリアは「無主の土地」であるとして、先住民の土地所有権を認めなかった。先住民は文明的な社会組織を持たず、定期的に土地を耕作することもしていないから、というのがその根拠であった。

また、先住民が社会から排除されるにつれて、植民地生まれのヨーロッパ人が自らを「ネイティヴ」となのるようになっていった。1840年ころまでには、オーストラリアでは「ネイティヴ」といえば先住民ではなく植民地生まれのヨーロッパ人を指すようになった。これに対して先住民は、差別的に「黒人」あるいは「アボリジニ」と呼ばれるようになった。このことは、アボリジナルが先住民として持つべき権利を否定され、さらに言えばその存在さえも無視されていたということを表している。

なお、日本ではオーストラリア先住民の総称として用いられているこの「アボリジニ」という表現だが、表現自体に差別的な意味合いを含むという理由から、現在オーストラリアでは用いるべきでないとされている。今日では、言語や地域集団が特定される場合にはその名称(「クーリー」や「カルカドゥーン」など)を用い、一般的には「アボリジナル・ピープル」と表記されるようになっている。したがってこの文章では、オーストラリア本土の先住民の総称として「アボリジナル」という表現を用いている。

1901年に結成されたオーストラリア連邦においては、先住民から選挙権が剥奪され、国勢調査においてもアボリジナルはオーストラリア国民から除外された。条文によってアボリジナル差別が規定されてしまったのである。

◆先住民の「文明化」

当時の入植者たちの価値観では、先住民社会は文明を持たない未熟なものであり、彼らをキリスト教化して文明的な生活を根付かせることが自分たちの使命だという考えがあった。マクウォーリー総督は先住民の文明化を目指して学校を創設し、毛布や衣類・食料を与えて懐柔を図った。一方で抵抗するアボリジナルには討伐隊を派遣するなど、従順でないアボリジナルには厳しい態度をとった。1820年代からはキリスト教各宗派が相次いでミッション(伝道所)を設立し、キリスト教の布教と先住民の文明化を目指して活動したが、いずれも失敗に終わった。

唯一例外的にアボリジナルに受け入れられたのが、クリケットであった。キリスト教化の前提となる文明化の手段として、ジェントルマンのスポーツであるクリケットが教えられたのだが、アボリジナルの多くが喜んで競技に参加し、技術の向上に励んだのである。彼らはジェントルマンのチームや大学のチーム、あるいは地方のヨーロッパ人のチームと対戦し、好成績を収めた。1868年に初めてイギリス本土を訪れたオーストラリアチームは、なんとヴィクトリア植民地のアボリジナルで構成されていたのである。

しかしながら、19世紀末に人種主義が盛んになると、クリケットはアボリジナルの教育プログラムから消えてしまった。クリケットはアボリジナルにヨーロッパ人との対立をあおり、自分たち本来の立場を忘れさせてしまうと考えられるようになったからである。

◆植民地化への抵抗

18世紀末のイギリス人の入植開始以降、アボリジナルは自らの社会と文化の持つ価値をヨーロッパ人に認めさせようと努力した。自分たちが高度な文明を持っていることを示し、ヨーロッパ人と対等な立場を獲得することを目指したのである。そのため植民者を自分たちの儀礼に招待したり、ときには成人儀礼の際に初めて見ることが許されるような聖物を公開したりした。圧倒的な武力を誇るヨーロッパ人に対抗する手段として、美術・芸術を用いたのである。

1957年、オーストラリア北部のエルコウ島で、「エルコウ島の記念碑」と呼ばれる建造物が建立された。近くに居住する各クランがそれぞれの聖物を持ち寄り、公開したのである。各自の宗教とそれを象徴する聖物が一堂に会して公開されるのは、アボリジナルの歴史が始まって以来前代未聞のことであった。また、アーネムランドでは鉱山開発の再考を訴え、請願書が提出された。対象となった土地のドリーミングを描いた樹皮に方言と英語を併記したこの請願書は、大いにオーストラリア社会の注目を集めた。結果として連邦特別委員会から、鉱山開発に伴う補償の支払い・対象地における聖地の保護・土地に関わるアボリジナルの道徳的な諸権利の認知を内容とする勧告を引き出すに至った。しかし実際には、この勧告に鉱山開発そのものの中止は含まれなかったために、鉱山会社との間でリース契約が交わされることとなった。

V.多文化主義とアボリジナル

◆白豪主義下での迫害

20世紀前半、アボリジナルは「死にゆく人種」と見なされ、州政府の管轄下で「保護」されることとなった。先住民保護政策の模範であると言われたクイーンズランド州では、純血のアボリジナルを隔離し、「保護」する一方で、混血のアボリジナルを一般社会に拡散・同化させ、アボリジナルを消滅させようとした。対アボリジナル政策は、暴力による鎮圧から保護による統制へと変化したのである。1939年以降は、混血のアボリジナルが白人社会にもたらす「悪影響」を最小限に留めるという名目で、生活のあらゆる領域に政府の干渉が及ぶようになった。

こうした状況はクイーンズランド州以外の場所でも同じであり、子どもたちを親から引き離して収容するということがごく一般的に行われていた。1997年の報告書によれば、1910年から1970年までの間に、オーストラリア先住民の子どものうち10分の1から3分の1が親元から引き離されていたという。彼らは「奪われた世代」と呼ばれ、過去の政府による政策の不当性を訴え、損害賠償を請求している。しかし、ハワード首相は政府として公式に謝罪することを拒否した。

◆テント大使館

1972年、マクマーン首相はアボリジナルの土地権を否定する声明を発表し、鉱山会社の開発を国家の利益に基づくものだとして正当化した。これに対し、先住民のほかオーストラリア国立大学の学生や、当時の労働党党首ホイットラムなどが国会議事堂前の芝生にテントを張り、これを「大使館」と名付けて抗議した。国内だけでなく、イギリスの『タイムズ』やフランスの『ル・モンド』、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』など外国紙もこれを大きく報道した。彼らは大陸全土にわたるアボリジナル聖地の保護と、土地を収奪したことに対する600万ドルの補償、そしてなにより採掘活動の即時中止を要求した。その抵抗は非暴力に徹したものであり、警察の執拗な介入を受けながらも繰り返し再建され、9ヶ月の間存続した。この「大使館」という名称は、アボリジナルが5万年以上にわたってこの大陸に居住し続けてきたにもかかわらず、連邦政府は彼らのことをまるで異邦人のように取り扱ってきたということを、皮肉を込めて表したものであった。この運動の精神と土地権をめぐる政治的な主題は、その後の運動に引き継がれていくことになる。

1988年、ノーザンテリトリーのバルンガで開催されたアボリジナルの代表者と連邦政府との会議は、バルンガ声明としてまとめられた。アボリジナルの主張は、土地権の承認と世界人権宣言で謳われている基本的権利の承認、またそれらを具体化する法案の制定と、アボリジナルの主権を認めるために連邦政府とアボリジナルの間で条約を締結することであった。これに対してホーク首相は、まずアボリジナルとの条約の締結に努力し、条約に盛り込むべき内容についてはアボリジナルと協議して相互同意を確立することを約束した。しかしながら、この声明はその後全くかえりみられることなく、最終的には反故にされてしまうのである。

◆土地権と先住民権原

アボリジナルの政治的な抵抗は、大陸の北部で始まった。1963年の樹皮請願書や72年のテント大使館に代表される運動を受け、76年に連邦法「アボリジナル土地権(ノーザンテリトリー)法」が制定された。この法律ではアボリジナルの土地の法的所有者としてアボリジナル土地財団を設立し、その土地の実質的な管理権(鉱山開発の許可など)を持つアボリジナル土地評議会を設置することを定めた。

ノーザンテリトリーを対象とした連邦法が制定されたことで、その他の州でも独自のアボリジナル土地権法が制定されていった。こうしてアボリジナル法は部分的にではあるがオーストラリアの法体系の中に組み込まれ、アボリジナルの権利は成文化された法的権利として承認された。

さらに、自らの土地に関する伝統的な所有権の確認を求めたマボウによる訴訟を受け、連邦最高裁判所は92年、オーストラリアは「無主の土地」であるとしてきた植民開始以来の考えを否定し、公有地での先住民の土地権原を認めた。翌93年には先住民権原法が制定され、アボリジナルがヨーロッパ人の侵略以前から居住し続けてきたという事実に基づいて、伝統的な法と慣習によって決定される権利が成文化された。これによって、部分的にではあるがようやくアボリジナルの土地所有権が承認されたのである。入植が始まってから、実に200年以上が経過してのことであった。

W.近年の動き

◆ポーリン・ハンソンの反多文化主義論争

1990年代初頭、連邦下院議員のポーリン・ハンソンは、反多文化主義的・反アボリジナル福祉的政策を展開した。英語系国民が失業で苦しむ一方で、多文化主義の名のもとに行われるアボリジナルに対する福祉政策の拡大や、アジア人の移住と定住援助の拡充は、英語系国民に対する逆差別であると主張したのである。失業と犯罪増加による社会不安を解消するため、福祉・警察関連の財政支出の拡充を求める保守派の支持層に支えられ、ハンソン議員は97年にワン・ネイション党を結成して極右的な政治活動を展開した。その活動期間はわずかではあったが、彼女の巻き起こした論争はオーストラリア全土に大きな影響を及ぼした。

◆キャシー・フリーマンのパフォーマンス

キャシー・フリーマンは、シドニーオリンピックの陸上400mで優勝した、アボリジナルとしての出自を持つ選手である。彼女は94年に開かれたイギリス連邦競技大会で優勝した際に、アボリジナル旗とオーストラリア国旗を一緒に掲げてウィニング・ランを行い、オーストラリア国内に大論争を巻き起こした。一部から非難の声が上がったが、圧倒的な世論が先住民と白人オーストラリア社会の和解の象徴だとしてその行為を称えた。これを受けてキーティング首相は国旗法を改正し、アボリジナル旗を国旗法の定める国旗として指定した。フリーマンは多文化主義オーストラリアの象徴として、シドニーオリンピックの開会式で聖火の点灯を行った。

◆経済的・社会的地位

現在でもアボリジナルの経済的地位は低いままである。国連の統計によれば、アボリジナルの平均寿命は世界の先住民族の中でも最短であり、オーストラリア国内の非先住民と比較すると、およそ20年も短い。また、社会的地位も上昇したとは言えない。オーストラリア国内の歴史教育においても先住民の虐殺については触れられておらず、大衆の意識の中でアボリジナルが真に権利を回復したとは言えないのが現状である。経済的な自立はもちろんのこと、金銭面では測れない精神面での「先住民としての権利」の獲得を目指して、アボリジナルの運動は続いている。

著者 大阪大学文学部 大庭隆宏

参考文献



山本真鳥編 『オセアニア史』山川出版社 2000年
藤川隆男著 『オーストラリアの歴史』有斐閣 2004年
藤川隆男著 『猫に紅茶を』 大阪大学出版会 2007年


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