第3章 ゴールドラッシュ
―1850-1860―

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金鉱王に俺はなる!

オーストラリアは、日本人に人気の観光地だ。ヴィクトリア州のメルボルンには、ソヴリン・ヒル(Sovereign Hill)というテーマパークがある。行きかう馬車。ヴィクトリア朝のドレスをまとった女性たち。そこで再現されるオーストラリアの1850年代は、ゴールドラッシュの時代だった。

ニューサウスウェールズ、ヴィクトリアでの金の発見は、オーストラリアの暮らしを一気に変化させた。一攫千金を夢見た人びとが集まったことによる、人口の激増。大量の金の輸出により、経済も発展。各植民地での自治政府の樹立、選挙権の拡大などの政治改革も次々に行われた。1850年代の終わりには、成人男性のほとんどが選挙権をもった。

しかし、金は同時に、混乱や治安の悪化、生活環境の劣悪化などももたらした。このような諸問題をいかに乗り切ったのか。ゴールドラッシュがオーストラリアに与えた影響を、さまざまな角度から見ていこう。

本文

T.金の発見

◆金の「再発見」

オーストラリアで本格的にゴールドラッシュが始まったのは、1850年になってからだが、それ以前にも金は発見されていた。1820年代以降には、シドニーから内陸部へ移動する、探検家やブッシュマンと呼ばれる奥地住まいの白人、そして囚人労働者が、川底や岩石の中に金を見つけていた。しかし、植民地当局は、これをすぐには公表しなかった。金が犯罪を誘発し、社会を混乱させることを恐れたためである。

1851年2月に、カリフォルニアでのゴールドラッシュを経験したエドワード・ハーグレイヴズが、ニューサウスウェールズで金を発見すると、4ヶ月後には約1000人の人びとが金鉱地に殺到した。これに直面した当局は、採掘の規制、採掘許可書の発行、検査官の配置を条件に、金の採掘を承認した。

◆ゴールドラッシュ本格化

1851年末までに、ヴィクトリアでも金が発見され、ゴールドラッシュは本格化した。約2万人の人びとが採金に従事し、金鉱への人口移動のためにメルボルンや南オーストラリアでは、一時的に男性人口の半数を失った。

◆海外からの移民

移民の多くはイギリス人だったが、ヨーロッパ人やアメリカ人、中国人の割合も高かった。1861年には、7万4000人ほどの女性を含む約20万人のヨーロッパ人、および2万4000人の中国人が、ヴィクトリアの金鉱地に存在していた。この外国人集団は、1850年代以前のアボリジナルに代わり、人種間暴力の矛先となった。

U.金鉱地の生活

◆金の採掘

船でメルボルンに到着した人びとは、高額な諸費用や、山賊からの保身、未整備の悪路などの問題に対処するため、金鉱地まで集団で行動するようになった。金鉱夫は、道具の購入や、日用品や食料などの生活維持にも、かなりの費用をつぎこんだ。

金の採掘方法自体は単純なものだった。掘り出したものから、土や小石を水で洗い流すと、比重が重い金だけを取り出すことができる、というしくみである。このため、地表面に近い金はすぐに掘りつくされていった。1853年には、金鉱夫1人当たり1ヶ月に平均154グラムの金が採掘されていたが、1854年には1ヶ月に平均42グラムに減少した。地表面近くでの、単純な方法での採掘が見込めなくなり、金を含む岩石を砕くために大型機械が導入されるようになった。個人や小集団での採掘は減少し、金鉱夫たちは、採掘会社で働くか、金鉱町で職を得るか、あるいは都市に戻っていった。

◆金鉱町の様子

金鉱地には、テントや小屋が建てられた。金鉱町では、金の採掘に関連する産業が発達した。町の中心には、道具屋、ホテル、宿屋、試金所などがあった。金鉱夫やその家族にモノやサーヴィスを提供する者や、金を売買する仲介者も存在した。1856年当時、金鉱地には50ものテント学校があったが、子どもたちは10人に1人の割合でしか通学していなかった。金鉱地では、多くの人びとは法に従って暮らし、寛容と平等の精神があった。しかし、泥棒や夜盗も存在していたうえに、犯罪者を取り締まる警官が少なかったため、ほとんどの人びとは火器を携帯していた。

◆金鉱地付近の環境の変化

金の採掘によって、付近の環境は悪化した。木材を得るために森林が伐採され、河川は干上がったり、化学物質によって汚染されたりした。1852年の夏、金鉱地における水源が干上がり、金の採掘に必要な水が不足した。質の悪い水が、生活用水や飲料水として使われたため、多くの人が病気にかかった。1852年から56年にかけて、ヴィクトリアのキャッスルメインにおいて、赤痢や他の病気で、200人の子どもが亡くなった。その多くが2歳未満であった。ヴィクトリアの乳児死亡率は高かった。1856年の同植民地では、死亡者の半数は子どもであり、そのほとんどが乳児であった。

V.人口の増加

◆自由移民の急増

自由移民の割合は、ゴールドラッシュの時期に急増した。1852年初頭から、一攫千金を狙った人びとが、次つぎとオーストラリアに到着した。1852年、ヴィクトリアには、300隻ほどの船が、1週間に2000人の割合で、総計10万人の人びとを運んできた。1853年には、900隻もの船が到着し、時には1日に7隻の割合で船が入港した。ヴィクトリア以外にも、何千人もの人びとが、ニューサウスウェールズの金鉱地に向かった。

この時期の人の移動は、東海岸側の諸植民地に影響を与えた。2年の間に、約30万人の新移民がやってきたが、これは、70年間に送られてきた囚人の数である約15万人を上回っている。タスマニアからは、何千人もの元囚人たちが本土に渡来した。金鉱地付近の泥棒や山賊は、こうした元囚人によるものが多かった。

◆人口の変化

1851年のオーストラリアの人口は43万人だったが、1861年には約3倍の115万人にまで増加した。ヴィクトリアの人口は、1851年の約7万7000人から、1861年には約7倍の54万人となり、オーストラリアの総人口の約半分を占めるようになった。ヴィクトリアとメルボルンは、オーストラリアの中で先導的なものとなり、大英帝国におけるオーストラリアの地位を確固たるものとした。

◆都市部での中産階級の台頭

この時期の移民によって、オーストラリア都市部において、中産階級が勢力を増した。ほとんどの自由移民は、イギリス出身の商人やホワイトカラー、または専門的な職業に従事していた人びとだった。読み書きができ、政治的関心をもつ人びとが多く、また、経済的に豊かになるための努力を怠らなかった。金鉱を離れ、都市で商売を始めても、こういった資質は受け継がれた。このような人びとの中から、後に、社会や政治、経済や教育といった分野で改革を主張する者も現れた。しかし、彼らは、イギリスからの独立は目標とせず、母国とのつながりを求める傾向が強かった。

W.政治改革

◆東部植民地によるオーストラリア連盟の結成

イギリス政府が囚人を送り続けることに反発する東部植民地は、オーストラリア連盟などを結成し、抵抗の意思を表明する。これが、最初のオーストラリアの国民感情のめばえとされるが、植民地の分離なども同時に望んでおり、単一の政治的枠組みを形成するという意識はなかった。

◆鉱夫たちによる抗議運動の多発

1850年代前半には、ヴィクトリア植民地政府に対し、鉱夫たちによる抗議運動が多発した。植民地政府は、鉱夫に毎月30シリングの採掘許可料を課していたが、ほとんどの鉱夫は、継続して支払うことができなかった。1851年に政府が値上げを試みた際には、2万人の鉱夫が反対集会を開いた。1852年に新たな金鉱地が見つかると、事態は一旦収まったが、1853年にはふたたび鉱夫の収入は下落した。鉱夫たちは、金の採掘だけでは生活が苦しくなっていったが、保守的な牧羊場主であるスクオッターが土地を独占していたため、農業などを始めることもできなかった。また、武装警官隊の駐在や、採掘許可書の抜き打ち調査などにも反感を抱き、採掘許可料も有効に活用されていないと感じていた。

こうした不満から、鉱夫たちは選挙で投票し、議会に代表を送り出すことを要求するようになった。1851年から54年までヴィクトリア植民地の総督であったラ・トロウブは、鉱夫たちの抗議に耳を傾けた。しかし、後任のホサム総督は柔軟性に欠けており、許可書の調査を厳格に行い、無許可の鉱夫の逮捕を命じた。金鉱地のひとつのバララットの鉱夫たちは改革同盟を結成し、採掘許可料の廃止、鉱夫たちへの選挙権の付与、スクオッターが支配している土地の解放を要求した。放火や暴力事件、集会などが起こったが、1854年末のユリーカ砦での反乱が最大であった。この衝突では、30人の鉱夫と5人の兵士が犠牲となった。こういった金鉱地での一連の抗議運動の結果、採掘許可料は10シリングに値下げされた。

◆選挙制度の改革と自立への動き

この時期、政治改革も一気に進んだ。ヴィクトリアでは、1850年代後半に、すべての成人男性に選挙権が与えられ、無記名投票が実施され、植民地議会議員選挙に立候補する際の財産資格は撤廃され、また、議席も人口を反映した配分に改善された。他の植民地でも似たような改革が行われた。その一方で、女性とアボリジナルには選挙権が与えられなかった。また、イギリス政府の決定をきっかけとし、各植民地で自治政府樹立の動きが起こっていた。新しい植民地憲法が起草され、植民地議会上院と下院を有し、下院議員は選挙で3年ごとに改選されるようになった。外交や軍事などの権限はイギリス政府に残ったが、かなりの面で自立性を獲得した。

X.経済や産業の発展

◆金塊の輸出

採掘された金は金塊の状態で、ロンドンへと船積みされた。金は、羊毛をしのいで、1870年代まで最大の輸出品目であり続けた。1851年から60年までの間に、ヴィクトリアでは2000万オンス(約622トン)、ニューサウスウェールズでは200万オンス(約62.2トン)もの金を産出した。ヴィクトリアだけで、世界全体の約3分の1の金を産出したことになる。その結果、カリフォルニアの金とともに、アメリカとイギリスは自国の通貨に金本位制の採用が可能となり、両国の世界金融支配が強まった。

◆農業の発展とネットワークの発達

1850年代には、需要の増加から農業も発展した。1854年のヴィクトリアでは、約2万2000haの土地が耕作されていたが、1860年には約17万haへと急増し、約1万にものぼる農場が新たに設立された。南オーストラリアでは、小麦の生産高が1850年代に5倍にも増加している。金鉱地や、開発の進む内陸地と、海岸沿いの都市は、道路や鉄道、電信線で結ばれるようになった。また、駅馬車や、河川での外輪汽船の導入により、原料や羊毛をより速く輸送できるようになった。

◆ゴールドラッシュのもたらしたもの

ゴールドラッシュ初期には、都市部で人口が減少し、金鉱地に向かう一時滞在者の数が増加した。とくに、ヴィクトリア以外の植民地での、人口と富の流出は激しかった。地表付近の金が掘りつくされると、人びとは都市に戻り定住するようになった。1850年代後半に、メルボルンの経済が成長するにつれて、工業や金融業、貿易を含む商業など、様ざまな産業が発展した。人口の増加に対応し、インフラ整備や公共の施設の増設も進んだ。ヴィクトリア以外の植民地でも、ヴィクトリアの金を高く買い上げ、吸収することで危機を乗り切った。

ゴールドラッシュは、多くの人びとの生活条件を向上させた。一人当たりの鉱区が制限されていたため、金は鉱夫たちに比較的平等に分配された。急激な物価の上昇は、年金生活者などを除き、多くの商人や不動産所有者などに利益をもたらした。

参考文献


藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣、2004
山本真鳥編『オセアニア史』山川出版社、2000
ジェフリー・ブレイニー(加藤めぐみ、鎌田真弓訳)『オーストラリア歴史物語』明石書店、2000
ジェフリー・ブレイニー(長坂寿久、小林宏訳)『距離の暴虐』サイマル出版会、1980


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