第8章 戦後高度経済成長と社会構造の変容
―1946-1972―

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新生オーストラリアへの船出

第二次世界大戦を契機として、オーストラリアでは様ざまな変化が起こった。大戦中にイギリスの凋落を見てとったオーストラリアは、国力強化の必要性から大量移民政策に踏み切った。その結果、イギリス以外からやって来た様ざまな移民たちは、多様性を増大させ、白豪主義を変質させる主要な担い手となったのである。また、1947年に国籍及び市民権法が制定され、オーストラリア市民が誕生したのを皮切りに、通貨や国旗も独自のものが採用されるなど、制度的な面でイギリス離れが顕著となる。

1950年代から始まる高度経済成長は、60年代の石炭や鉄鉱石の輸出によってさらに加速し、オーストラリアに未曽有の好景気をもたらした。この好景気が、完全雇用を創出し、余暇の拡大をもたらすことになる。こうして生まれた大衆文化は、従来の価値観を変容させ、オーストラリアに大規模な変化をもたらしたのである。このような制度的・社会経済的な変化は、オーストラリアの自己認識の変化を促し、後に続く多文化社会の礎を築いたのである。ここでは、現代のオーストラリアを構成する諸要素がいかに形成されたのかを検証し、その形成過程について見ていく。

本文

T. 大量移民政策 〜多文化社会の礎〜

◆ 大量移民政策

第二次世界大戦におけるシンガポールの陥落と日本軍の快進撃は、オーストラリアにイギリスの傘の限界を痛感させるのに十分な出来事であった。広大な国土を日本軍の再侵攻から守るために、人口増大の必要性が説かれた。また、戦後復興に必要な労働力確保への要求とも相まって、人口増加は喫緊の課題となったのである。 連邦政府は、「人口増大か滅亡か(Populate or Perish)」という標語の下に、年2%の人口増加率を目標として掲げ、そのうちの1%、約7万人を移民で補うという目標を策定した。 ただし、移民であればどこからの移民でも良いのかといえばそうではなく、初代移民担当相のコールウェルが「10人中9人はイギリスからの移民で」と述べたように、移民源として最も好まれたのは、イギリスからの移民であった。 しかし年間7万人もの移民をイギリスからの移民のみで補えるはずもなく、他のヨーロッパ諸国からの移民も積極的に受け入れることになった。このイギリス以外からやってきた「異質な」移民たちは、オーストラリアの多様性を増加させる要因となったのである。

◆ 移民政策の変化

政府は移民に対するアプローチとして同化政策を採用した。これは、移民たちに出身国の文化や慣行を捨て去り、オーストラリア的な文化生活に同化することを強要する政策であった。 しかし、主流社会にすんなりと同化していくことが期待された移民たちであったが、1960年代に入る頃には、同化が思うように進んでいないことが判明した。 彼らは市民権を取得する前に帰国したり、教育や健康の面で著しく不利益を被ったりしていたのである。彼らが「問題を抱えた移民」としてクローズアップされた結果、移民だけに同化義務を課すのではなく、主流社会側からも一定の働きかけが必要であるという認識が政府の中に生まれるようになった。 その結果、同化主義をやめ、アメリカのメルティングポットをモデルとした、移民の教育や福祉により重点を置く統合主義へと移行することになった。この統合主義のアプローチを採用し始めた時期は、諸説あるが一般的には、1964年に移民省に統合局が誕生してからであるといわれている。 また、統合主義への移行が必要とされた要因としては、移民自身が抱える問題に加えて、オーストラリアが移民先として敬遠され始めたことが大きい。1950年代以降、ヨーロッパで本格的な戦後復興が始まり、移民たちはヨーロッパ内へと吸収されていった。 また、それ以外の移民も、地理的に近くいち早く移民たちが保持している文化を尊重し始めたカナダやアメリカへと移住することを好むようになった。移民先としての魅力を維持するためにも、オーストラリアは移民が保持している伝統や文化をより尊重する必要性を感じるようになったのである。 このような多様な移民とその文化を尊重する姿勢は、後の多文化共生の礎となった。

U. イギリス離れ〜オーストラリアの独自の国家像の模索〜

◆外交の独自性

戦後のイギリスの影響力の低下は、イギリスに依らない独自の国家像と外交路線の必要性を痛感させることになった。 戦後オーストラリアは自国の地理的な位置を正しく認識し始め、太平洋の問題により主体的に関わるようになる。当時最大の懸念であった共産主義の拡大と自国への波及に対処するために、前進防衛(Forward Defence)を防衛戦略として採用した。 その意味するところは、自国からより遠いところで共産主義を食い止めてしまおうというものであった。 この戦略によってオーストラリアは、朝鮮戦争やベトナム戦争へも積極的に派兵することになる。 また、そのようなハードパワーのみならず、良き隣人政策(Good Neighbours’ Policy )を展開することで共産主義の問題に対処した。 この政策の中核を占めていたのが有名なコロンボプランである。 その主旨は、1951年に外相のパーシー・スペンダーが説明したように、貧困が共産主義の魅力を高める要因であるとの理解のもと、良き隣人たち(東南アジア諸国)が経済発展していけるように、留学生の受け入れによる(反共的な)エリート層の形成・技術供与・資金貸与などを行おうというものであった。 また1951年のANZUS条約の締結及び1954年の東南アジア条約機構(SEATO)によってイギリスの傘に依らない自前のセキュリティーゾーンを構築したオーストラリアは、より国家としての主体性を保持するに至った。

◆制度面におけるイギリス離れ

また国内に目を移すと、制度におけるイギリス離れも顕著となった。1948年に国籍及び市民権法の制定によって、オーストラリア国籍が創出され、さらに1953年には、国旗が制定される。また、1966年には通貨がポンドからオーストラリア・ドルへと移行するなどジム・デヴィッドソンが脱自治領化と呼ぶ現象が進行するようになったのである。

V.社会制度の整備・拡充と大衆文化の成立

◆社会環境の整備

戦後から1972年にかけて、オーストラリアは継続的な経済成長を果たしてきた。戦後の高度経済成長は、1950年代末までに一旦は失速しかけたものの、石炭や鉄鉱石が、主要な輸出産業として台頭するにつれ、盛り返すことに成功する。鉱産資源の輸出は、オーストラリアに未曾有の好景気をもたらすことになり、大衆は物質的な繁栄を享受することになった。この好景気の中で、労働環境の整備が進んだ。1948年には、週40時間労働が確立し、1950年代には完全雇用が創出された。この2つの要因は大衆の余暇を拡大させ、大衆文化が花開くことになる。また、自家用車を保持し、ショッピングセンターに買い物に行くという現代のライフスタイルはこの時期に確立された。未曾有の好景気と社会的環境の整備は、人びとに物質的精神的な余力を与え、この時期進行するポスト構造主義的な変化をもたらすようになったのである。

◆大衆文化の成立

既成の価値観の打破や反差別の潮流がこの時期進行した。例えば女性や先住民族がその例である。戦時徴用によって一時的ではあるが、白人男性と平等な待遇を受けた女性と先住民族は、戦後も平等な環境を求めて運動を展開していくことになる。女性の賃金は、戦後に男性の75%にまで引き上げられていたものの、フェミニストからの継続的な運動の帰結として、1960年代末からは、平等な賃金を求める運動が本格化する。この運動が結実するのは1973年〜74年まで待たなくてはならないが、女性が自らの地位の上昇を求めて運動を起こし、成果を挙げていったことは特筆に値する。主流社会の先住民族に対する態度もこの時期ある程度改善された。1964年には、仲裁裁判所が先住民族に対して平等な賃金を保障することを定め、1967年に行われた憲法改正のための国民投票においては、先住民族が国政に参加することを大多数の国民が支持したのである。

W. 白豪主義の変質

◆ 反差別意識の改善

このような既成の価値観を打破しようという潮流は、国家のあり方にまで波及することになる。旧来オーストラリアには、歴史家のウォードが、「英国人種愛国主義」と呼ぶ、イギリス性への志向と、それに対立するときに主張されてきたとされるオーストラリア性を併せ持つ白豪主義的イデオロギーが国家の中核理念として存在していた。この中核概念及び、それを体現する諸政策は、この時期段階的に緩和していくことになる。その要因の1つとして、国際的な要因が挙げられる。冷戦の体制下で第三世界がその影響力を増し、南アフリカのアパルトヘイト問題が脚光を浴びるなかで、人種主義の国として認知されることは不利益なことであるという認識は、世界中の国ぐにに共有されるようになった。オーストラリアにおいても、良き隣人政策が、人種主義的な移民政策によって、その効果を十分に発揮できていないということが指摘されるようになった。また、大量移民による人口の多様化や、従来の諸価値観を打破しようという潮流、さらには国家による独自性の追求は、イギリス性も含んだ形の国家統合イデオロギーに、疑問符をつけることになったのである。

◆ アジアとの関わりの増大

この時期のオーストラリアは、イギリスの繁栄の陰りを主要因として国家の独自性を追及していくことになる。制度・外交・安全保障における脱イギリスは、国家のあり方を変える要因としては十分であった。また大量移民による人口の多様化や移民政策の変化は、文化や制度に潜むイギリス性に疑問符を突きつけた。こうして形成されてきた新生オーストラリアとしての国家像は、現在のオーストラリアにも多分に引き継がれているのである。

参考文献

Jim Davidson, “The De-Dominionisation of Australia”, Meanjin, Vol. 38

梅津弘幸「1961年〜1962年初期の西ニューギニア紛争へのオーストラリアの対応」、『オーストラリア研究紀要』31号63−86頁

ガッサン・ハージ(保苅実・塩原良和訳)『ホワイトネーション〜ネオ・ナショナリズム批判』平凡社、2003年

木畑洋一主編『現代世界とイギリス帝国』ミネルヴァ書房、2007年

杉本良夫『オーストラリア〜多文化社会の選択〜』岩波新書、2000年

関根政美編『概説オーストラリア史』有斐閣、1988年

関根政美『マルチカルチュラル・オーストラリア』成文堂、1989年

陶山宣明「オーストラリアの移民政策改革:白豪主義の終焉」、『オーストラリア研究紀要』27号41−60頁2001年所収

竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』中央公論新社、2000年

竹田いさみ主編『オーストラリア入門』東京大学出版会、2007年

藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣、2004年

藤川隆男『オーストラリア歴史の旅』朝日選書、1995年

藤川隆男『猫に紅茶をー生活に刻まれたオーストラリアの歴史ー』大阪大学出版会、2007年

藤川隆男編『白人とは何か?』刀水書店,2005年

ブレイニー,G.(加藤めぐみ・鎌田真弓訳)『オーストラリア歴史物語』明石書店、2000年


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