第4章 成長の時代
―1860-1890―

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線路はどこまでも続かない

1860年代からオーストラリアは約30年に渡る高度成長期に突入した。

 政治では都市の専門職や商人から構成されている自由主義(リベラル)派が従来の保守派に代わって政権を握るようになった。

 外国、主に本国イギリスからの投資により、経済発展の象徴である鉄道網・電信網が、オーストラリア各地のメトロポリスと呼ばれる大都市を中心に敷かれ、国内・国外市場とのアクセスを容易にした。土地購入や都市建設にも多額の投資が行われ、主要な公共施設がこの時期に完成した。土地改革により南オーストラリアなどで穀物生産が増大して、全国で牧畜もさらに拡大し、一次産品を本国イギリスに輸出して利益をあげるようになった。経済の発展により余暇が拡大すると、スポーツが盛んになりフットボール、クリケット、競馬などの競技が人気を集めた。北部オーストラリアでは、アボリジナルやメラネシア人、中国人、日本人、インド人といった有色人種が開発を担っていた。しかしこの時期には反中国人感情が高まり、排斥運動も強まっていく。金融の中心地であったメルボルンでは、土地と鉱山会社への投資が増大し、バブルの絶頂を迎えたが、何の生産実績もあげていない鉱山に対する行き過ぎた投資の結果、経済は破綻へと向かっていくのである。

本文

T. 自由主義派の時代

◆派閥政治の時代

自治政府が発足すると、牧羊業を背景とする保守派と都市の専門職や商人を代表とする自由主義派が政権をめぐり争った。最初は保守派が政権を握ったが、自由主義派が政権につくと、男子普通選挙の導入や農村部に偏った議席配分の是正などによって、保守派を切り崩し、自由主義派が政権を担うようになった。1860年代から1880年代まで続く、長期高度成長と自由主義派の支配の時代が始まった。

自由主義派は政党ではなく、有力な個人を中心とする派閥から構成されていた。自由主義派の時代は派閥政治の時代でもあった。この時代には「道路と橋の政治」と呼ばれる利益誘導型の政治が展開された。派閥政治に対する批判はあったが、進歩と開発が社会的な課題となっている中で、開発の推進と利益の配分という面では効果的なシステムであった。

保守派は政権から排除されたが、上院では強い勢力を持っており、民主的な改革の障害となった。自由主義派は、保守派と対立する中で、土地法を制定し、中小農民への土地の売却の可能性を開いた。

U. 経済発展の時代

◆世界最高の生活水準

1860-1880年代は経済発展の時代だった。労働者の賃金は上昇する。1880年代、白人オーストラリア人の一人当たりの名目収入は、カナダの3倍、イギリスの2倍以上、アメリカの1.5倍に達した。実質的な収入はこれより低かったが、高度なサービス、家賃や食料が安価だったので、この時代のオーストラリアが世界最高の生活水準を享受していたのは間違いないであろう。しかし全ての人びとが経済発展を享受したのではなく、雇用が不安定で貧困に苦しむ人もいた。

◆イギリスでの資本調達

オーストラリアへの投資は大半が本国イギリスからによるものだった。オーストラリア政府はロンドンで債券を調達していたのである。投資の約4割は公的部門がしめており、その3分の2は鉄道を中心とする交通整備であった。民間部門の投資では、ニューサウスウェールズでは農牧業、ヴィクトリアでは都市建設にむかった。オーストラリアの主要都市にある公共施設(図書館、教会、大学、博物館)はこの時期に建設された。

第二次産業革命による交通革命、それに伴う鉄道、電信の建設によって、オーストラリアも世界経済に統合されるようになった。農牧産品の移動が容易になり、本国の工業製品と、オーストラリアの一次産品を交換する相互補完的な貿易関係が持たれることになった。食糧よりも、羊毛、鉱石が主要な輸出品であった。

この間、土地改革も進行した。生産の約8割を占めた南オーストラリアやヴィクトリアを中心に穀物生産が約3倍に伸びた。北部では牧畜のフロンティアが拡大した。

◆先住民・非ヨーロッパ人労働力の利用

労働力として、先住民のアボリジナルやアジア系、南太平洋の人びとが労働力としてオーストラリア北部ではアボリジナルが牧場内に家族とともに移り住み、食料、衣服の提供を受けた。クイーンズランドで綿花とサトウキビプランテーションが開発された時、メラネシア系の先住民であるカナカ人を契約労働者として導入した。カナカ人は契約労働者として導入されたが、中には強制労働や、詐欺行為で労働移動を余議なくされた人たちもいた。インド亜大陸からも労働力を導入した。大半はインド人であったが、アフガン人も導入された。インド人は英領フィジーのサトウキビプランテーションでの労働力、アフガン人は乾燥地帯での鉄道建設、物資運搬のためのらくだの乗り手としてであった。日本人は真珠貝採取やサトウキビプランテーションにおける技術系労働者として、クイーンズランド、西オーストラリア、北部地域にもっぱら派遣されており地方都市での存在は限られていた。真珠貝は採取ばかりではなく、加工したものも重要な産業となっていた。オーストラリア人潜水夫では真珠の採取がなかなか成功しなかったため、日本人契約労働者の需要は常にあった。限定された地域で労働し、永住化も考えていなかったため、現地との摩擦はほとんど起こすことはなかった。日本人は主に木曜島で真珠採取に従事した。中国人はかつては金鉱地帯の採掘に限定されていたが、19世紀後半になると広範な職種に参入していった。多数の中国人は定住化に伴い、労働の多様化を積極的に模索し、富の蓄積に着手しはじめた。都市近郊では、中国人が雑貨業、洗濯業、家具製造、小規模農業を営むようになり、急速に定住化が進んだ。このように、中南米やアフリカからの労働移動はまったく無く、アジア地域や南太平洋地域からの移動にほとんど限定されていた。

V. 反中国人感情

◆反中国人感情の要因

1850年代初期から様々な国の出身者が金鉱で従事していたが、主に中国人に対して不満を感じるようになった。理由の一つは経済的な恐怖があげられる。中国人が低賃金で従事するようになると、同様の職種に就いていたオーストラリア人の収入が少なくなり、経済的に困難になるとその矛先を中国人に向けるようになった。つまり、貧しいオーストラリア人が出現したことにより、反中国人感情が出てきたのである。集団で効率よく働き、熱心に働く中国人は経済的苦境とは無縁にみえた。得た金を母国に送金し、オーストラリアの富を奪い、貿易不振を招いている、と主張する人までいた。理由のもう一つは社会的な要因である。すなわち、中国人の存在に対して、オーストラリア人が拒絶反応を出し始めたのである。中国人は彼らの性質上、限られた地域に集まって居住していたため、小さな地方都市では、白人の数を上回るような場合もあった。生活態度や食生活も異なっていたために、オーストラリア人は次第に拒絶反応を示すようになった。

◆中国人への移民制限

1850年初期から反中国人暴動があり、60年代初期にはさらに悪化した。80年にメルボルンでは、労働組合員たちが反中国人労働同盟を結成し、中国人たちが低賃金で働き、労働組合に加入しないために、自分たちの職が奪われていると主張した。反中国人感情が高まるにつれて、88年の植民地間会議で、統一的な中国人移民制限法の制定が協議された。89年には全植民地において、中国人の上陸定員の設定、植民地間の移動の制限などが導入された。中国人問題は、白人同士の連帯感を強化するためのきっかけとなり、後の時代に白豪主義がオーストラリア社会に蔓延するようになる。

W. 文化

◆階級社会

19世紀後半のオーストラリアは、政治的には平等で、経済的にも極めて流動的だったが、同時にはっきりとした階級社会であった。船内では、上流階級は乗客、下の階級は移民という風に呼ぶなど明確に区別された。男性は下の階級と交流するのを避け、クラブに入り、女性は中・上流階級を中心とするソサエティと呼ばれる人間階級のネットワークに加わっているかどうかで、他の人々と自分たちを明確に区別した。ソサエティとはいわゆる社交界のことである。それが生み出される過程は訪問、ゴシップ、招待リスト、社会的オストラシズムであった。

◆スポーツの興隆

19世紀後半になると、スポーツの競技者は爆発的に増加した。余暇の拡大とともにスポーツは大衆的な、国民的な文化として定着した。スポーツは男性としてのアイデンティティ、国のアイデンティティとしての意味を帯びるようになった。スポーツは屋内文化活動、女性的、イギリス的な活動と対比されるようになった。スポーツ組織を構成したのは上流階級であったが、競技には多くの人びとが参加し、ラグビー、クリケット、競馬、ボート競技などが盛んであった。スポーツ競技場は本国イギリスにオーストラリアの独自性を主張する象徴的な空間でもあり、このような中でイギリス代表チームに対してオーストラリアのナショナルチームが対戦する「テストマッチ」という言葉が生まれた。

◆時間

電信の普及により、統一的な時間が設定されることになった。鉄道事故を防ぐためにも電信は不可欠であった。1872年のダーウィンとアデレード間の大陸横断電信線の完成は、ヨーロッパからのニュースの伝達速度を、週単位から時間単位へと激変させた。置時計と懐中時計の普及は、時計時間の普及を拡大させた。単一の時間の浸透は容易ではなかったが、1895年にはグリニッジ標準時に準拠するシステムに移行した。70年代から初等教育が導入され始め、厳格な時間割の徹底が目指されたが、農牧地帯では成功しなかった。しかし、世紀末には農家の子どもたちも時計のリズムで生活するようになった。

X. バブルの崩壊

◆経済発展による投機熱の上昇

1888年、オーストラリアの金融の中心地であったメルボルンの株式市場には、295もの会社が上場されたが、95は投資会社、161は鉱山会社であった。ブームの絶頂期には投機は都市の土地とブロークンヒルやBHPビルトンなどの、銀、鉛などの鉱山会社に向かった。しかしそれらの鉱山会社の中には、もう実績をあげていないのもあった。88年の十月、土地価格が急落した。土地価格は低下したが、鉱山会社への投機は続いた。多くの投資会社は、地価の再上昇を願って、あらたに受け入れた資金を借入金の返済にあてるという手段で即座の清算を逃れたが、多くの投資家に被害を及ぼすことになった。

◆ベアリング商会の破綻

アルゼンチン革命による1890年のベアリング商会の破綻により、オーストラリア政府はロンドンで起債ができなくなり、土地投資会社の多くが倒産し、そこに融資していた新興の銀行も倒産した。こうして長期に渡るオーストラリアの高度経済成長は終焉を迎え、大不況の時代を迎えることになるのである。

参考文献

山本真鳥編『オセアニア史』山川出版者、2000

藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣、2000

藤川隆男『猫に紅茶を〜生活に刻まれたオーストラリアの歴史』大阪大学出版会、2007

竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』中公新書、2000


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