
遺跡からみた川西の古代・中世
7.平安時代後期〜室町時代
平安時代中頃になると、奈良時代に成立した律令制が崩れ、荘園制の時代となりました。
川西では、源満仲が川西中部の多田盆地に移り住み、武士の時代のさきがけとなります。集落は、南部の栄根・下加茂遺跡だけでなく、中部の 東多田・ 蓮源寺遺跡、北部の 西畦野遺跡などが新たに加わります。このうち、中・北部は多田荘、南部は小戸荘となっていました。また、寺院は 多田院、 満願寺などが建立されます。
中世寺院「満願寺」
 現在の満願寺
満願寺は、千手観音像などの平安時代の仏像群や正応6年(1293)銘の九重塔、寺伝の古文書などから、平安時代以降多田源氏をはじめとする多くの人びとの崇敬を集めた寺院であることが知られます。現在は、近世の堂が残るのみですが、古文書より常行堂・法華堂の並ぶ、天台系伽藍であったと考えられます。
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満願寺の中世伽藍
 満願寺下層建物(鎌倉)
現社の本堂下層の発掘調査で、平安時代後期、鎌倉時代、室町時代初期の3期の建物跡が火災に遭った状態で見つかりました。このうち平安時代の建物の火災跡には火葬墓が営まれ、室町時代初期の建物建立時には地鎮具が埋められていました。これらの建物跡は、いずれも本堂の前身で、火災の都度同じ場所に再建されたと考えられます。
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多田院(国史跡)
 現在の多田神社
10世紀後半、源満仲は一族、郎党をひきつれ多田盆地に移り住み、天禄元年(970)現在の多田神社の前身多田院を建立しました。中世の多田院は、鎌倉時代の大修理完成供養見取り図より金堂・常行堂・法華堂・塔の並ぶ天台系伽藍で、満仲の廟も祀られていたことがわかります。現在の多田神社本殿・拝殿は、近世初頭徳川家により建てられたものです。
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中世集落
源満仲の多田盆地への進出や、多田荘の開発に伴い、川西中・北部に多くの中世集落が生まれました。中部の蓮源寺遺跡もその一つで、防御に適した台地上にあることから、多田院御家人など武士の集落と考えられます。建物跡はまだわかっていませんが、一辺3〜4mの方形竪穴遺構が数個見つかっており、瓦器・陶器・青磁などが出土しています。
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