第11章 「白」と「茶色」の間
−南アフリカにおける白人形成−

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要約

南アフリカは国家的制度として、アパルトヘイトという人種差別体制を20世紀末までとり続けた。人種ごとに政治的権利、市民的自由、土地所有、居住空間、就労、教育といった面で差別化され、大きく[白人]、[黒人]そしていずれにも属さない「カラード」の三つに分けられた。人口の十数パーセントの[白人]のみが、完全な市民としてこれら社会的恩恵を享受した。しかし国家は人種を定義する「科学的・客観的」指標を持たず、カラードと登録されたものが白人への登録変更を求めて裁判をおこす例もあった。人種の分類においては身体的指標に加え、生活様式や教育などによる「社会的認知」という指標も重要であった。

南アフリカ社会に人種という概念をもたらしたのは自らを白人と認識した者たちだったが、移民が当初から白人意識を持っていたわけでも、アパルトヘイト制度が白人を誕生させたわけでもない。オランダ東インド会社統治下のケープ社会では、入植者、先住民、奴隷のそれぞれが流動的な関係であった。19世紀初頭にイギリス支配が始まると、圧倒的な軍事・経済力を背景に征服戦争がすすみ、かつてのオランダ系入植者たちは「トランスヴァール」と「オレンジ共和国」を建設。自らを白人として差異化することで「アフリカーナー」民族の創成を目指した。

南アフリカ戦争中、ペスト発生を機に先住民の居住区が制限され、都市化の進行にともない、衛生面の悪化や犯罪の原因を先住民やカラードに求める風潮がうまれた。終戦後は本格的な人種隔離政策がとられ、白人を核に人種が固定化され、後のアパルトヘイト体制下における人種分類とほぼ同じ形ができあがった。

人種分類の問題は、自らを白人と認識する人々が、それ以外の人々との境界をどのように定めるかという問題であり、多様な混血や奴隷出自の者が存在するケープ植民地においてはより複雑であった。しかし社会的了解としての人種分類の成立、隔離政策の実現は人種の差異を意識させ分類を固定した。イギリス系優位の政策がとられ、アフリカーナーの民族意識は刺激されたにもかかわらず、彼らとイギリス系住民との白人としての連携はすすんでいった。しかし、アフリカーナー労働者の経済的実態は「白人らしさ」には程遠く、第一次世界大戦後には、白人労働者の賃金切り下げによりゼネストが国家に危機をもたらした。このような労使対立の中で、アフリカーナーとイギリス系労働者は連帯し、「世界の労働者よ、団結せよ、そして白い南アフリカのために闘え」とのスローガンを掲げ、白人になろうと急進化し、階級的危機は人種的危機にすりかえられ、法制度によって解決された。

現在ではアフリカーナーの混血性が主張されるようになったが、権力構造が根本的に変化した現在では、アフリカーナーがカラードとの共通の歴史を発見することは自然なことであり、「先住民性」という主張はポストアパルトヘイト時代の新たな人種創成の動きともとれる。

用語解説

感想

コメント 南アフリカ研究は重要ですね。


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