第6章 白色人種論とアラブ人
―フランス植民地主義のまなざし―

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要約

18世紀から19世紀にかけての人種分類法の変遷を見ると、18世紀後半にブルーメンバッハの人種五分類法が登場する。しかし、現在の人種分類法の基本的な考え方となっているのは、キュヴィエの人種三分類法である。つまり、人種をコーカソイド(白色)・モンゴロイド(黄色)・ニグロイド(黒色)の3つに分けたものである。このキュヴィエの考え方では、アラブ人を白色人種の仲間の一人として明確に位置づけていた事がその特徴である。

しかし、このキュヴィエの分類法で示されていたアラブ人とヨーロッパ人との関係は、次第に変化し始める。1827年サン・ヴァンサンは『ヒトー人種の動物学試論』の中で、人種を15種に分け、アラブ人とヨーロッパ人との間に明確な線引きを行なっている。サン・ヴァンサンの白色人種論はアラブ人をヨーロッパ人よりも明らかに劣位に置くことによって、時代を画したものといえる。この時期はまた、人文社会科学の分野でも同様の主張が台頭する時期であった。

19世紀中頃から、アラブ人は、次第に白色人種のカテゴリーから有色人種のカテゴリーへと変容していった。その原因として、フランスによるアラブ人住地の植民地化が挙げられる。ナポレオンのエジプト遠征の際には、植民地化を断行しうる軍事力や財政力が欠けていたため、アラブ人住地の植民地化には至らなかった。実際にアラブ人住地を植民地化する動きは1830年代に近くなってからのことだった。この頃からアラブ人差別の白色人種論が力を持ち、しだいにアラブ人を白色人種として見なす事がなくなっていった。

用語解説

感想

サン・ヴァンサンによってヨーロッパ人とアラブ人の間に明確な線引きが行なわれたのは、ヨーロッパとアラブ・イスラーム世界の間で緊張が高まった時期だった。そして彼の言説は、その後国際政治上の道具として使われ、アラブ人住地を植民地化する正当性の裏づけとして使われたのだと思う。そして国民の間でもアラブ人たちの蛮行振りが宣伝され、その後の植民地化によって身近な存在であるアラブ人に対して、自分たちの優越性、彼らの劣等性を見出したのではないだろうか。

コメント そうだと思いますが、フランスが啓蒙思想の本場であることも考慮に入れる必要があるでしょう。平等と差別、文明化と支配の並存と緊張関係を考えることも必要だと思います。


現在のように黒人に近いアラブ人の存在というのはいつごろ、何が原因で成立したものなのだろうか。やはり直接の植民地化、つまり野蛮で文明化されていない人々を支配するということによって、そういったイメージがフランス国民の中に植え付けられたのだろうか。この当時のアラブ人への差別というのは、人種的な差別だけにとどまっていたのだろうか。そこにはイスラームに対する宗教差別というものはなかったのだろうか。

コメント 杉本さんの主張では、植民地主義の正当化に力点が置かれているようですね。宗教の問題はいいポイントだと思います。


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