第12章 歴史としての白人像
−オーストラリア先住民のオーラル・トラディション−

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要約

クィーンズランドのディルパルの人々は、キャプテン・クックについて語っている。多くのアボリジナルにとって、白は喪をあらわす色であり、死の色でもある。アボリジナルの多くは、クックを祖先としてよりも、植民地化の実行者であると語る。ここでは、ノーザンテリトリー北西部に住むヤラリンの人々の物語が挙げられているが、そこでは、キャプテン・クックは理不尽な征服者である。同じ地域に住むグルンジの人々のあいだでは、最初のイギリス人キーン・ルイスについても類似した物語を伝えている。

筆者がアボリジナルにとって、クック以上に重要だと考えている白人が、ネッド・ケリーである。彼はアイルランドからの流刑囚と移民の息子であるが、既存の権力に疑問にもち、アウトローとなる。そして、権威に抵抗する勇敢かつ豪胆な男として有名になっていく。ヴィクトリア・リヴァー・ダウンズのヤラリンたちは、彼についても物語を伝えている。

キャプテン・クックやネッド・ケリーの物語の構成は、ヤラリンの人々のドリームタイム・ストーリーに類似する。つまり、彼らはクックたちについての情報や知識を、自らの持つ物語形式の中に編みこみ、再構成したのである。しかし、そこで語られる物語はおおきく異なっている。その違いは、二つの白人像に結びつけられる。

クックの物語は、「調和」「バランス」「対応」「自律性」という四つの道徳性の原則に基づいたヤラリンの法に対して、キャプテン・クック(白人)の法が持つ不正義や不道徳性を告発していく。そうしてヤラリンの人々の抑圧と絶望を語るとともに、「クックの時代の終わり」と、「土地はアボリジナルのもとに戻った」という彼らの新たな出発点を表す。

一方、ネッド・ケリーはドリームタイムに、最初の人として物語に登場する。彼はアボリジナルに抑圧や死をもたらしていない。それどころか、彼はドリームタイムの精霊と同様に、法や秩序をもたらしている。こうして、大陸北部のヤラリンやグルンジの人々は、白人に二つの像を与える。一つは反発と抵抗の対象としての白人の全体像として。いま一つは共感すべき一人の白人として。

こうしてアボリジナルは、オーラル・トラディションをとおして、オーストラリアにおける白人を彼ら自身の世界の中に位置づける。それは白人の起源にもおよんでいるのである。そして、ディルパルやヤラリン、グリンジ、ジナンといった人々が語り継いできたオーラル・トラディションは、ヨーロッパ人の支配を逃れられなかったアボリジナルの白人観であり、同時に世代を越えて白人との交渉を余儀なくされつづけているアボリジナルの歴史書なのである。

用語解説

感想

クック(白人)の法の不正義や不道徳性を告発する彼らの伝承が、オーストラリアという国家の正当性を揺るがしているようです。国の政策として多文化主義を採用する現在だからこそ、逆にそれをはっきりと意識できるのかなと考えました。

コメント 多文化主義は先住民の伝統を支配のうちに取り込み、それを無力化するようなところもあります。


ところで、アボリジナルに関する文章を読んでいていつも気になるのは、アボリジナルの周縁にいる人々です。例えば、都市化したアボリジナルのような。彼らをどう考えるのか気になるところです。話がそれましたが、この章で面白いのはネッド・ケリーの物語から、反発する対象としてではない共感すべき白人像が語られていることでしょう。白人としてネッド・ケリーとクックを考えると、アボリジナルの批判はより透明性の高い(と私が感じる)ドミナントな白人性に向かっているようです。

コメント 確かに、別の白人像が語られているところが本当に興味深いですね。それをどう位置づけるかについては課題が残ります。


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