第10章 アジア系移民の到来と排斥
―白豪主義の形成―

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要約

オーストラリアにおけるアジア系移民は1830年代後半からインド人や中国人を中心に、安価な年季契約労働力として導入され始めた。1850年代になると多数の中国人男性が中国本土やカリフォルニアのゴールドラッシュから自由移民として渡ってくるようになる。中国人は金鉱地の川床や、白人の見捨てた廃坑や廃石の山などで採金を行うようになる。

このような中国人に対し、1850年代までには、白人鉱夫たちは様々な不満を感じるようになっていった。その理由としては、経済的な競争に対する恐怖が挙げられる。白人鉱夫たちは、1850年代中頃から始まった収入の減少といった経済的困難の理由を中国人に求め、中国人を経済的・社会的脅威であると非難したのである。

1890年代までには、上述のような中国人を中心とする非白人に対するあらゆる嫌悪や恐怖の理論的根拠として、人種差別理論が発展していくこととなる。そこでは、白人系の人々は肉体的にも精神的にもより優れているという信念が基礎とされた。このような信念がオーストラリアの白人を団結させる効果をもたらし、外国人に対する嫌悪をより増幅させたといえる。

このような人種差別理論のもと、1901年に移民制限法が連邦議会を通過する。これは移民に対し、ヨーロッパ言語の書き取り試験を課すというもので、事実上連邦政府が望まない移民は誰でも自由に排除できるものであった。この制度は1958年に廃止されるまで、「白豪」を保つ安全装置として機能したわけで、ここに白豪主義が完成したと言える。

用語解説

感想

アジア系移民、特に中国系移民が増えるにつれて、白人至上主義的な人種差別理論が展開されるというのは、他の白人移住植民地でも見られることであるが、オーストラリアだけが極めて人種差別的な白豪主義というものを維持していくのには、何かオーストラリア固有の理由があったのかどうか疑問に思った。

コメント オーストラリアに特殊な白人性があったということだね。もちろん固有な理由はいろいろあるよ。少し考えてみたら。


アジア系人種に対する排斥は、ヨーロッパ人国家によく見られるものだが、オーストラリアにおいてそれが起こった背景が細かく説明されていた。通り一遍ではなく、地域によって排斥の程度に差があるという主張も、当然ではあるが改めて説明されると分かりやすかった。

コメント アジア人の排斥はヨーロッパではなく、新定住植民地と呼ばれる場所が中心です。でもワールドカップ、フランス大会のアジア人像はグロテスクでした。フランス人の美的感覚をよく表現しています。


明治期アメリカに移住した日本人も、この中国人と同じような苦労をしたそうだ。昔の中国人や日本人には同民族で固まり、なかなか現地の人々に溶け込もうとしなかったという欠点はあるのかもしれない。しかし、安い賃金で働き、オーストラリア人の嫌がる仕事をこなしてきた中国人もオーストラリアの発展に貢献してきたことを、評価してほしいと思う。

コメント そうすべきだと思う。特に中国人はケアンズ周辺の開拓の主役だったから。


中国人移民排斥を主張したオーストラリア白人は自分勝手だと思う。彼ら白人たちも移民またはその子孫であり人に土地に勝手に入ってきたのに、自分たちより後からやってきた移民を排斥しようとしたからだ。たしかにじぶんたちの暮らし向きがよくなくて、その困窮の不満の捌け口を見つけようとする行動はわからないでもないが、不満をぶつけるなら中国人移民よりも、上流の白人たちにぶつけるべきだったと思う。

コメント 当時は日本人も自分勝手だったような。『オーストラリア歴史の旅』第5日を読んでみて。


私が8年ほど前にオーストラリアに行ったときですら、中国人労働者は好まれない、といった話を聞いた記憶があります。まさに現代までも続く中国人に対する蔑視の原因が「勤勉であったこと」という私たちにとっては美徳のように思われることであったということが興味深いと感じました。そこのような状況下でもなおオーストラリアに残り続けた中国系の人々の立場からの本を読んでみたいと思いました。

コメント 勤勉は美徳ですが、それを奴隷的・隷属的と見る立場もあります。自由で独立した労働者というアイデンティティを望む白人労働者にとって、勤勉なアジア人は奴隷的労働者として対比させられました。


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