第0章 エビちゃんは白人か?

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紹介

「エビちゃん白人か?」って、お馬鹿な質問ですが、でも少しだけつき合ってください。日露戦争が開始された1904年、自由主義経済の紹介者として有名なエコノミストだった田口卯吉は、『破黄禍論日本人種の真相』という本を出版しました。その内容は、「天孫人種はアーリア人」、つまり日本人はアーリア人だとする荒唐無稽な議論でした。合理主義者がまじめに展開するお馬鹿な議論。2008年に日本は史上空前のお馬鹿ブーム(なんでもブームになるのがわからん)になりましたが、天然ものよりは、にせのお馬鹿のほうが興味深いと思いますが、どうでしょうか(大学の先生らしいはいり方ですか?四文字熟語使ってみました)。「日本人がアーリア人だ」という主張がまかり通るとすれば、「エビちゃんは白人か?」と聞く程度はかまわないでしょう(「いいよー」と返事がありましたので、それでは)。


エビちゃんやエビちゃんOLは、意識的に「西洋人になろう」とは思っていなかったでしょう。まあ、あこがれを感じている人はいるでしょうけれども。おそらく彼女たちは独自の美の規準に基づいて、望ましい容貌を求めています。そのマジックワードは「かわいい」です。したがって、「彼女たちは日本的な美の理想を追い求めている」とも言えるでしょう。ただし、その理想は、半世紀前に浜村美智子が西洋的だと思ったスタイルによく似ています。西洋的なスタイル、つまり白人のスタイルの一形態(ちょとひっかかるが)は、個人の意識のレベルでは、日本人本来のものとして吸収できるようになったのです。西洋的なもの、白人的なものは、時には急速にその意味を変えていきます。しかも、おおよそ誰もが意識しないうちに、それが起こることもあります。ヨーロッパ的な、白人のような容貌のイメージが、いつの間にか、日本的な容貌の理想のイメージとして吸収される。そういう時代かもしれません。

エビちゃんは日本人ですが、エビちゃんが代表する日本的な女性美の、日本的とはどういうものなのでしょうか。「誰か教えてくださーい。」田口卯吉大先生の頃とはちがって、ごちゃごちゃ言わずとも、一部の日本人はすでにアーリア人になっているのかもしれません。


次は世界の歌姫マライア・キャリーです(ちなみにぼくが住む大阪府八尾市の歌姫は天童よしみです)。マライア・キャリーはニューヨークに生まれました。母はアングロ・ケルト系のオペラ歌手で、父は、ヴェネズエラ移民の血を引く、アフリカ系アメリカ人(黒人)です。ホワイトネス(白人性、白人であることの意味)についてアメリカ学会で報告したおりに、ある大学の先生が、マライア・キャリーのことを白人だと信じている学生が多数いると嘆いていましたが、学生たちは、それほどポイントがずれているわけではありません。一滴でもアフリカ系の血を引く祖先を持てば黒人だと認定する、ワンドロップ・ルールを適用すれば、キャリーは黒人です。しかし、日本人がキャリーを外見から判断すると黒人には見えないでしょう。アメリカ合衆国の差別システムが生んだ、ワンドロップ・ルールとは縁のない日本人の学生が、マライア・キャリーを見て「白人」だと思うのは、至極当然のことです(ここらで爆笑とらんでもええんやろか、学生寝るで、と授業だと思う。吉本では最低3分ごとに爆笑を取るのがルールらしい。負けたらアカン、負けたらアカン、きんかんのど飴なめてがんばろう。「なんのこっちゃ。」わかる人はえらい)。

大学の先生の嘆きは、ワンドロップ・ルールが今もアメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)の集団規定に強い影響を与えていることから生じています。この不当で、不正義な法律上の規制が、今でも現在の人種集団のあり方や人種意識を縛っています。「そんなこと、みんなで忘れたらいいやん」というふうには、簡単にはいかないのがやっかいなところです。ともかく、誰が黒人なのかは、文化的に決まっています。アメリカ文化に詳通している先生は、キャリーを文化的に黒人として「認定」したわけですが、そうした人種文化を知らない幸運な学生は、外見から判断してキャリーを白人だと思ったわけです。白人とか黒人とかいう人種は、よく身体的な特徴に基づく区分だとされますが、それが社会的・文化的に形成されてきたことは、この例からも明らかです。


ぼくは、この本を、文化的・社会的な差異、とりわけ人種、そのなかでもとくに「白人」を理解してもらうために書いたつもりです(白人を理解しようと思うと、人種を考えんとアカン、人種を考えるには差異の構造を考えんと、という順番のほうがしっくりしますが)。その際、身体に基づくと考えられている人種(「考えられている」というのがポイントで、基づくのではありません。誤解なきように)、一般的に使われている「白人」という言葉に加えて、文化的・社会的な人種性という意味で、「白人性」という言葉を使いたいと思います、ということに一旦しておきます(ちょっと難しいかな。まなかな、なかなか見分けつかん。ホクロがポイントらしい)。

キャリーを白人だと思った日本人の学生も、おそらく外見だけでそう判断したわけではないでしょう。キャリーは、黒人性よりも、日本人の学生が白人だと感じる要素、白人性を多分に帯びていたからだと思います。キャリー自身は、白人、黒人、ラテンという多重な出自の承認を求めてきた著名人で、いわばタイガー・ウッズやバラック・オバマの先駆者です(ウッズやオバマはみんなわかるやろか?日本の常識、世間の非常識)。キャリーは、白人のように見えることに関しては、生まれだから仕方がないというような内容の話をしていました。しかし、以上の話もこれで終わるわけではありません。日本で発売されているソニーが作ったマライア・キャリーのアルバムのカバージャケットを見ると、「キャリーはとても白い。」日本人の印象には、表象された、つまり人工的に細工された身体の表現の影響もあるのでしょう。

白人の外見を持ったものが黒人とみなされ、黒人に分類される人が白人とみなされる。文化的・社会的な人種を考えるとき、日本人も白人性を担えると言ってよいのではないでしょうか。エビちゃんも、ぼくも、あなたも、白人性を担える。そうして、日本人は白人になることができるのかもしれません。

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