第7章 白豪主義

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紹介

オーストラリア(本当はニューサウスウェールズ植民地です。オーストラリアという国は1901年に成立します。それまでは自立した植民地に分かれていました。)は、白人であっても自由を持たない労働者、イギリスから流刑にされた囚人によって開発の進んだ植民地です。その起源は、1788年、つまりフランス革命の1年前で、囚人植民地の運営には、啓蒙思想と人道主義がすでに色濃く反映されていました。囚人には人間としての権利がないというような発想ではなく、刑罰に従順に服している限り、可能な限り必要な食料と衣服、休息時間が与えられていました(イギリスの労働者は、実は流刑にされたほうが長生きできたと思われます。自由な労働は厳しい)。奴隷制が廃止されるとほどなく、1840年代にオーストラリアへの流刑制度も廃止されます(西オーストラリアは例外です)。時代の流れは、強制労働から自由労働に向かっており、それは人種にかかわりなく、強制的に働かされていたすべての人びとに関係することでした。囚人労働に代わって、オーストラリアには本国の労働者を無償で植民地に送る、補助移民制度が創設されます(オーストラリアは遠すぎ。旅費をもらわんと貧しい人はイギリスから移民しようとしません。だって手じかにアメリカがあるもん。渡航費は貧しい労働者の年間賃金に相当しました)。


中国人たちは、労働の人種で差別する世界の2重構造にできた裂け目、香港を通ってオーストラリアに来ましたが、それはオーストラリアの人びとにとって、社会を転覆するような出来事のように思われました(少し前に日本のマスコミがボートピ−プルのことを騒ぎ立てたのと似ていますね。今は簡保の宿がはやってるね。でも、このまま売らんとおいといたら毎年50億円の赤字で、赤字がたまってタダでも売れんようになるんとちゃうやろか。そのとき誰が責任とるんやろう)。この中国人を追い出そうとする運動が、カリフォルニアやオーストラリアで起こります。当時のオーストラリアは、独立前のアメリカと同じようにいくつかの植民地に分かれていて、統一した行政区分はありませんでした。そのなかでオーストラリアの東部にあった3植民地(ヴィクトリア、南オーストラリア、ニューサウスウェールズ)で、中国人移民制限法が制定されました。イギリス帝国の建前とは矛盾しますね。どう考えても。

ぼくは、この移民制限を、一方で、アヘン戦争のように、力ずくでも資本や商品の流通の自由を確保しながら、他方で、発展途上国から先進国への人間の移住を規制する制度の始まりだと思っています。この制度は、世界経済の発展の結果として生まれましたが、逆に世界の貧富の差を固定化します。現在も、世界中の人間を二つに大きく区分するのは、この移民規制です。先進国の人びとに対しては「いいなあ」と思い、発展途上国の人びとに対しては「かわいそう」と思う。そういった感覚の種でもあります。今の世界は、大規模な移民という起こった歴史よりも、移民の規制によって起こらなかった歴史、後進地域から先進地域への自由な人口移動がなかったことで形成された世界だと、ぼくは思っています。ですから、移民の歴史(ひとつの研究対象ですが)よりも、移民規制の歴史のほうに、ぼくは関心を持ち続けてきました。現在のグローバリゼーションの引き起こしている問題のかなりの部分は、資本や商品やサービスが、人が動かなくとも、はるかに容易に移動するようになったところにあると思います(インドの電話案内は世界を相手にサービスを提供して、しかも格安です)。


1901年1月1日、20世紀の最初の日に、ばらばらに分かれていたオーストラリアの各植民地がまとまって、オーストラリア連邦(コモンウェルス・オヴ・オーストラリア、common weal という言葉がもとです。よく似た言葉がアメリカの説明にも出てきましたね。)という国家を作ります。オーストラリア連邦政府は同じ年に、ヨーロッパ語による書き取りテストに基づく移民制限法を導入し、非白人の移民を事実上完全に閉め出しました。大学時代、ディクテ(ディクテーション・テスト)に苦労したぼくには、とんでもない規制方法のように感じられます(こうした方法は、まずアメリカ国内で黒人の権利を奪うために使われます。それがイギリス帝国に広まり、その影響がアメリカの移民政策に及ぶという発展をとげます)。その後、非白人の入国規制は、修正されながら1970年代の初めまで続き、「白豪主義」もしく「白豪政策」と呼ばれることになります(アメリカでもちょっと説明したけど、連邦国家の意味を日本人はよくわかってませんな。ご隠居さん。ここらで言うといたほうがいいんとちがいます。ややこしなるから、貞吉それはおいとこ。へい、へーい。どこのご隠居や?)。


白豪主義の歴史と日本の関係は、当然もっと複雑です。白豪主義が導入されようとしたとき、日本政府はこれに強く反対しました。「日本を侮辱しトール」というわけです。オーストラリアへ行った日本人移民は、アメリカへ行った移民と同じく、差別的な扱いを受けました。日本人移民史によく見られるように、日本人移民に自己同一化し(出ました練習の成果)、アメリカやオーストラリアの白人の差別を告発する側に立った歴史を書く。これも可能です。(「ただし、かなり間抜けやったらね」と授業では付け加えますが、失礼になるからそんなんは活字にできません。「してるやん」)。

しかーし、ガイドとしては、この道は勧めません。「やめといたら」と学生にはアドヴァイスします。白豪主義国家を日本国家の鏡とすると同時に、差別を受ける側としても歴史を見る。歴史は多面的な見方を可能にする、知的なエクササイズ、感性のエクササイズの場だと思います。とりわけ、アイデンティティが流動化する時代、差別をする側に立つこともあれば、差別される側に立つこともある。平等を要求しながら、同時に差異を求め続ける。そういう世界、そうした時代に生きる人間にとって、こういうエクササイズをすることが大切ではないでしょうか。差別をする側に自分自身を映しつつ、差別を受ける側に自己を重ねる。歴史はそうあったほうが、ガイドとしては有益だと思います。(そやなかったら、歴史なんか勉強せんでええわ。歴史の先生もいらんやろ。道路族といっしょや。ごめんね道路族、文教族は仲間やから。ひょっとしたら麻生元首相も仲間か」)

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