第15章 赤ずきんちゃん

前の章へTOP>第15章|次の章へ

メニュー

見出し

紹介

差別はどこにでもあります。けれども、差別や差異のとる形態はさまざまです。にもかかわらず、それらをすべてあわせて差別と呼ぶので、それはどこにでもあるように見えます。しかし、あらゆる時代に、あらゆる形の差別が同じようにあるわけではありません。実際、多くの差別は、時代とともに認められなくなり、消えてゆきました。多くの差別は現在では犯罪になっています。犯罪も、だいたいいつの時代にもありますが、犯罪を論じる必要がないという人はあまりいません。というか、みんなヒートアップします。「人間は本質的に、動物的本能として犯罪好き」(言葉の練習です)というのはどうでっか。

日本国憲法第14条第1項に「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあります。この条文から明らかなように、私たちの社会では、ある種の差別が違法なことがわかります。それと同時に、この条文は、国民以外の人間と国民を差別する規定でもあります。差別がどこにでもあるものだとしても、それぞれの社会は、いろいろな差別を区分し(差異化し)、ある種の差別を公認し、ある種の差別を禁止します。ですから、差別があらゆる社会にあったとしても、それを問題にしないでもいい、というわけではないのです。もう少し言うと、差別の仕方がひとつの社会の仕組みや個人のアイデンティティのあり方に、決定的にかかわっています。江戸時代は、人種、信条、性別、社会的身分または門地によって差別するのが普通の社会でした。つまり差別しないといけない社会でした。武士と町人の境界を超えるもの、キリスト教を信じるもの、身分に不相応な生活をしたもの、すべてが厳しい処罰の対象です。こうした身分制の社会における差別を否定した上に、私たちの社会は成り立っています。こうした差別のあり方が、その差別の否定が、その社会の成り立ち方、その社会で生きる人の運命を大きく左右するのです。

そうだからこそ、政府の政策、社会的行為、個人の生き方を論じたり、考えたりするときに、差別の問題を考えなければならないのです。差別されている人がかわいそうだから、困っているからという理由だけで、差別を論じる必要があるわけではないのです。差別はどこにでもあるけれども、その差別のさまざまなあり方が社会や個人に決定的に大きな影響を及ぼすので、それについて十分考えておく必要があります。


さて、差別は「人間がいる限りなくならない」、つまり「人間性の本質だからなくならない」、したがって何を言っても仕方がないという議論はどうでしょう。人間性と呼ばれるもの、それも時代とともに変っていきます。


赤ずきんは心理学者・精神分析学者によって常に援用され、解釈されてきました。というのは、物語が思春期のセックスという主題で始まり、イドに対する自我や超自我(エゴ、スーパーエゴ)の勝利で終わるという好都合な構造を持っていたからです。いや、そう見えたからです。近代的精神分析道具でかっこよく解釈してみせる格好の素材だったと言えるでしょう。

ところが、次の物語をみてください。これは農民たちの赤ずきん物語です。グリム童話に収録された話は、宗教改革のさいにフランスからドイツに逃亡したユグノーが持ち込んだ物語を、グリムが記録したものでした。また、ユグノーたちは、フランスの詩人・作家シャルル・ペローらが民話から記録し、それを改作した物語をドイツに伝えたのでした。ペローの話のもとになった農民たちの物語を見てみましょう。人間の深層心理、マンタリテ(心性)が大きく変わったことがわかると思います。

昔ある少女がおかあさんに、おばあさんのところにパンとミルクを届けるように言われました。少女が森を通って歩いていくと、オオカミがやってきて、どこへ行くのか尋ねました。「おばあちゃんのところへ」と彼女は答えました。「どちらの道を行くんだい。ピンの道かい。針の道かい。」「針の道」。そこでオオカミはピンの道を行き、先におばあさんの家に着き、おばあさんを殺し、その血をビンに入れ、その肉を切って皿に載せました。それからパジャマを着て、ベッドで待っていました。

「とんとん」「お入り」「こんにちは、おばあちゃん。パンとミルクを持ってきたわ」。「何かお食べ。肉とワインが台所にあるよ」。そこで少女はそれを食べました。その時小さな猫が言いました。「いんばいめ、おばあさんの肉を食べ、血を飲むなんて。」それからオオカミは言いました。「服を脱いで、私のベッドに入っておいで」。「どこにエプロンをおけばいいの」。「火に投げ入れなさい。もうあなたには必要ないものよ」。それから、上着、スカート、ペチコート、ストッキングと脱ぐたびに、少女は同じ質問をしました。そのたびにオオカミは同じように「火に投げ入れなさい。もうあなたには必要ないものよ」と答えました。

少女はベッドに入りました。そして、「ねえ、おばあちゃん、なんて毛深いの」と聞きました。「それは体を暖めるためよ」。「ねえ、おばあちゃん、なんて大きな肩をしているの」。「まきを運ぶためなのよ」。「まあ、おばあちゃん、なんて長い爪をしているの」。「それは体をかくためよ」。「ねえ、おばあちゃん、なんて大きな歯をしているの」。「これはあなたを食べるためよ」。そして彼は彼女を食べてしまいました。


心理学者の誤りは、この物語を歴史がないものとして取り扱ったところにあります。時代を問わず本質的な人間性が存在し、それを近代の精神分析の概念で解き明かせると考えたのが、そもそもの誤りです。赤ずきん物語は、それぞれの地域、時代、階層の文化に応じて、形をどんどん変えてきました。物語は、変わることのない人間の内面を表現しているのではなく、人間の内面、マンタリテ、人間の本質的な部分が時代とともに変化していくことを示しています。『猫の大虐殺』の著者のロバート・ダーントンによれば、そういうことになります。

少なくとも一般の人間の世界観・意識としての人間精神は、歴史的に大きく変わります。人間はこういうものだからというような議論は、雑談の場ではかまわないでしょうが、まともな議論としては、ほんの少しの妥当性もありません。時代とともに変化する人間社会や人間精神とともに、白人の概念も、差別意識も変化してきたのです。変わりゆく概念、変わりゆく人間精神、変わりゆく差別構造、変わりゆく差別意識が、この本のテーマです(えへへ。ちょっとこそばい)。

感想


TOP 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 オマケ