第4章 近代的な人種主義の誕生

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紹介

ヨーロッパ諸国による奴隷制は、近代人種主義の起源だとよく言われます。奴隷制度が現在に至る人種主義に影響を及ぼしていることも確かでしょう。しかし、数世紀にわたる奴隷移民の時代には、体系的な人種主義思想は発達しませんでした。「なんでやろう?」近代につながる人種主義思想が誕生するのは、奴隷制度が廃止されたり、廃止すべきだという意見が強まったりした時代です。「ちょっと時代があいませんね?困りましたね。」


個人が姓名を持ち、それが記録されるということは、途方もなく(あんまり使わんほうがいい形容詞、学生が使ったら切腹もの)重要な意味をもっています。氏名は世代と世代をつなぐ最も重要な鍵です。たとえば、多くの人種や民族の混血が生まれている状況で、さまざまな混血の人びとを正確に分類するには、以前の世代の情報が不可欠です。それがなければ、便宜的に分類するしか仕方がなくなります。この点について、スペイン支配下のラテン・アメリカ世界に、とても興味深い例があります(ネットサーフィンで見つけちゃいました。でもネットサーフィンって「死語」らしい)。

18世紀のニュースペイン(メキシコ)で、ムラート(黒人と白人の混血)のアンドレス・デ・アレグリアAndrés de Alegríaという人物の裁判が行われています。彼は、既婚のスペイン人女性とグアテマラから駆け落ちをして(女性は4歳の子供もつれていました。相当な覚悟があったと思われます。)、この女性をメキシコシティーに置き去りにしたことをきっかけに、重婚の罪で告発されました。かれのもう一人の兄弟、ニコラス・デ・ネグレロスNicolás de Negrerosの証言によると(名前からは血を分けた兄弟だということは想像できませんね。山田太郎と鈴木一朗が兄弟のようなもんですね)、アンドレスは、元はデ・アレグリアという姓ではありませんでした。アンドレスは、スペイン人の軍人であったドン・サンチョ・アルヴァレズdon Sancho Álvarezの奴隷として生まれますが、少年期に職人になる資金を与えられて、解放されます。母もこの地域の奴隷でしたから、おそらくこの奴隷の母とアルヴァレズの息子だったのでしょう。最初は、アンドレス・デ・ドン・サンチョと名乗っており、これをのちにデ・アレグリアに変えたのです。

当時のカスタ(混血)の人びとの多くは、姓を親から受け継いでおらず、洗礼や結婚のときに聖職者から姓を与えられました。大人になるまで、社会生活では、「源兵衛」に当たる名前だけを使って、不自由なく暮らしていました。アンドレスについては、彼の生まれたグアテマラの田舎では、個人を特定するのにデ・ドン・サンチョのように父称を用いるのがふつうでしたが、奴隷たちは、姓を主人から継承するのを避ける傾向がありました。たぶん、アンドレスは、奴隷の過去を振り切るために、父の名を捨てたのでしょう(いまいち説得力に欠ける推論です)。法廷は、彼の兄弟のニコラス・デ・ネグレロスを、「自分の名前がニコラス・デ・ネグレロスだと言っている男」と呼び、本当にニコラス・デ・ネグレロスだとは断定せず、身元(アイデンティティ)を疑っています。これは、当時、どの程度まで姓名が公的に把握されていたかを物語る事例です。

結局、重婚は無罪になりましたが、判決は鞭打ち20回。差別に満ちた裁判ではありますが、近代の人種主義思想が支配的な社会と比較すれば、寛大な判決とも言えましょう。20世紀初頭のアメリカ南部であれば、リンチを受けたのではないでしょうか?

近代以前のラテン・アメリカ世界では、スペイン系の上層階級にとって、姓は継承するべき遺産のひとつで、何世代にもわたって続く家系を確認する手段でしたが、下層の混血の人びとにとっては、姓はたんに便宜的なものか、役人と出会う場で必要になる程度のものでした。こうした人びとは、最初に結婚するときに姓を選ぶ必要が生じるまでは、「公式の」姓を持たなかったと言われています。こういう世界で、人種を正確に決定することがはたしてできたのでしょうか。洗礼記録や埋葬記録の多くは人種を表記していますが、その人種を記載した根拠としては、父母の血統ではなく、見た目や世間の評判が大きかったようです。また、記録から漏れた住民も多数いたのも忘れてはなりません。


さて(「さて、さては南京玉すだれ」。さて、というとこんなフレーズにたどり着きましたが、最近あんまり見かけませんね)、下地図を見てください(あまり引かないでください)。これは移民の世紀といわれた19世紀から第二次世界大戦までの移民の動きを示したものです。矢印の太さはおおまかに移民の数を示していると考えてください。移民の移動の状況が激変していることがわかると思います。この移民の世紀こそ、人種思想が発達し、人種・民族差別が大量虐殺を生むことになった時代です。その特徴をまず把握しておきましょう。

     

この時代、ヨーロッパから6000万人近い移民が移動しました。北アメリカ、とりわけ合衆国が主な目的地でしたが、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アルゼンチンなどにも多くの移民が向かいました。カネ・モノ・ヒトの自由な流通を推進する資本主義システムの世界的な拡大にともなって、身分・職業・居住地などの伝統的束縛から切り離されたヨーロッパの人びとが、文字通りの自由移民となって移住しました。このような事態は、人類史上なかったことです。逆に言うと、世界的な規模で、貧しい人びとが伝統的拘束から大規模に解放される可能性が生まれたために、鎖国でもしないかぎり、一国の国内で身分・職業・居住地を固定化する制度は成り立たなくなったと言えるかもしれません。

こうした新しい移民の登場で、奴隷貿易は意味を失っていきます。イギリスは早くも1807年には、奴隷貿易の廃止を打ち出し、他の国の奴隷船の取締りを始めました。奴隷貿易がしばらく続くのは、人種差別はあまり目につかないとかつて言われたラテン・アメリカ諸国にかぎられるようになります。また、その数も自由移民に比べれば、はるかに少数でした。世界的な資本主義と国家的な民主主義の制度が広がるとともに、身分・職業・居住地を固定する奴隷制は崩壊し、それを擁護する思想は少数意見となり、社会的に周縁化されました。ところが、奴隷貿易や奴隷制に対する批判が、西洋諸国で支配的になるにもかかわらず、人種意識や人種主義思想は強まっていきます(race という言葉が18世紀に人類の下位の分類として辞書に記載されている例はありません。そう記載されるのは19世紀に入ってからのことです)。「どうして、そうなるんやろうか?」人種主義が強まるのは、「奴隷の消滅にもかかわらず」なのでしょうか、「奴隷が消滅したがゆえに」なのでしょうか。それはむつかしい問題(決着はつかんよな!)で、両方を示す証拠があります。ここでは、人種主義は奴隷制を支えるイデオロギーとは同一ではないということだけ確認しておきましょう。

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