第17章 印のないカテゴリー

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紹介

最初、レギンスという言葉が使われ始めた頃、それを使う人はファッションに通じているということを意味しました。しかし、時とともにレギンスが支配的になると、スパッツという言葉が「印のある」言葉となり、それを使う人々は、魑魅魍魎というか、おじさんやおばさんの種族ということになります。そして、「印のある」言葉は、事実上使えなくなります。なぜなら、レギンスを使う限り、何の注目も浴びませんが、スパッツは、マークされ、それを使う人はスティグマ(焼印)を押されるからです。おじさんの烙印を押されるのは、おじさんもいやなのです。ノーマルな表現がこうして生まれました(ただしレギンスという言葉も、おじさん・おばさんも使うようになると魔力を失います。ファッションの世界の回転は速いのう)。

「おじさん・おばさん」は、「印のある」集団です。「おじさん・おばさん」でない人々は「印のない」集団で、そこに共通の名前はありません。「おじさん・おばさん」のような、かっこの悪いファッションは身に付けない、ださい話し方はしない、みっともない行動はしない集団で、「おじさん・おばさん」というマークされた集団によって区別される無標のカテゴリーです。ぼくはもちろん、おじさんではありません。

もう一つ例をあげます。最近、看護婦さんとは言わずに看護師さん、スチュワーデスとは言わずにキャビン・アテンダントと呼ぶようになりました。両者が女性だけの職業であったときには、「婦」や「デス」が女性性を明確に示す、「印のある」職業を表す言葉だということがあまり意識されませんでした。しかし、そこに男性が進出するようになって、女性の職業として「印のある」カテゴリーであることがはっきりしました。その結果、ニュートラルな言葉に置き換えられたのです。


合衆国では、白人が多数を占め、白人は一般的・典型的な集団として、印のないカテゴリー、ノーマルなカテゴリーとして機能してきました。その結果、白人は、差別を受けてきた黒人の状況や社会的に不利な立場を、平常な状況(白人的標準)からの逸脱と捉えて、黒人問題として表現しました。黒人問題の解決が課題であって、差別を受けている黒人には同情するが、差別を生じる構造を作り出した白人性の構造に目を向け、そこに責任を感じることはありません。

近年の白人というカテゴリーは、黒人やアジア人と同じレベルで人種ではありません(カテゴリーのあり方は変化していきます)。黒人やアジア人のような印のあるカテゴリーに対して、純粋に人間的理想の標準として機能しているので、白人としての人種意識を感じる必要がなく、人種主義に対する責任を感じることもないのです。人種が関係するのは黒人やアジア人、人種主義的なのは黒人やアジア人だという意識さえ生まれます。白人は、印のないカテゴリーとして非カテゴリー化されているので、直接集団として名指しされることはなく、個人として扱われます。これは新自由主義的個人主義に適合的で、自己正当化のプロセスを促進します(調子よく書きすぎや)。


こういう考え方は面白いアイデアですね。ですがそこには問題点もあります。この問題点こそが、現在の差異のシステムの根源を示し、白人性の問題を解く鍵だと思います。白人がマークされていないカテゴリーだ、男性がマークされていないカテゴリーだというのは、絶対的な事実ではありません。マークされた、されていないというのは、あくまで相対的な指標でしかないのです。ベル・フックスという黒人のフェミニストがいますが(再登場です)、フックスは白人性の恐怖、「分離すれども平等」という原則が支配していた時代の、明確な他者としての白人性の恐怖を思い出せと訴えます。それは、白人性は意識的にマークされたカテゴリーにすることができるということです。多くの差別を受けている人びとにとっては、白人性はマークされたカテゴリーそのものです。中心にいる人びとには、中心が見えませんが、周縁にいる人びとにはそれがはっきりと見えるのです。男性がマークされていないカテゴリーだということにも、これは当てはまります。フェミニストたちは、こうした問題をあばき出すのに貢献してきました。

有標とか無標というカテゴリーが相対的なものやったら、マークされている、マークされていないなんて何とでも言えるやん。「そんないいかげんな」と思うかもしれませんが、このいいかげんなところが私たちの生きる差異のシステムの本質的なところだと思います。伝統的社会から近代社会への転換は、すでに見てきたように、固定化された差異のあり方からの転換を意味しました。人類という一元的なカテゴリーの下での労働者としての差異は、相対的な差異としてしか認められず、流動的な差異としてしか存在できませんでした。帝国や国民国家を単位とする政治システムでは、臣民や市民としての平等という建前の下、それに属する各集団の差異はいつも流動的で、長期的に安定することはありませんでした。マークされた、マークされていないというのが、相対的で流動的なのは、こうした相対的で流動的な差異のシステムの反映だと言えるのではないでしょうか。不完全で、固定化できないことこそが、差異のシステムの本質と言えるかもしれません。


しかし、問題はそう単純ではありません。人種主義が興隆した19世紀末から20世紀前半にかけても、擬似科学的な人種主義が完全に支配的な潮流になったことはなく、それらは、資本主義的な差異の自由流通の原理(労働力の移動)や民主主義的な原理と共存し、こうした原理とも適合するような装置が発展しました。人種の概念も同じように多様な適応を示します。人種主義的な思想に基づく白人/黒人のカテゴリーの対立図式は、それを強行に固定化することで、自然の秩序の一部に見せようとしますが、白人の人種としての身体性の強調、黒人や非白人の身体と対立するものとしての白人性の強調は、必ずしも白人という集団の無標性を絶対的に保証するようには働きません。「無標の形式は典型的に主流となるもので、それがゆえに中立で、規範的で、正常で、自然なものに見えるので、目に見えず、その特権は注意を引かない」とよく言われます。他方、「有標の形式は、差異として明白な形で示され、異常なもの、規範から外れたもの、逸脱した特殊なものとして表現され、無標の標準からはずれたなにものか」とされるのですが、人種主義的な人種概念では、白人の身体が文字通り見えるものとして黒人の身体と対照されるために、それは可視化されてしまいます。20世紀の初頭にアメリカの黒人の並外れた指導者であったW.E.B.デュボイスがはっきりと指摘しているように、「20世紀の問題はカラーラインの問題だ」と言う認識を与えてしまうほど、その可視性は高いと言えると思います。これは、近代日本が繰り返し否定してきた認識でもあります。身体は自然化の最大の道具ですが、同時に自然化を粉砕する突破口でもあります。そういう意味で、身体は抵抗の場となります。抵抗の力は、自由な流通と交換を求める資本主義経済や平等を求める民主主義的要求から生じます。抵抗に適応したような人種の対立の形式も、明示的な人種の対立の形式と平行して存在します。それが見えない白人性です。一体それをどのように考えればよいのでしょうか。


黒人/有色人種ではない者の内容、白人性の内容は変化すると言いました。現代の白人性の内容とは、どのようなものでしょうか?黒人であることを否定することは、今でもよく行われます。タイガー・ウッズは、自分が単なる黒人であることを否定しましたし、ハイブリディティはたいへんな流行です。それは、黒人と白人の境界を超越し、新しい時代を切り開くようにも見えますが、肉体として黒人/有色人種であることを否定し、別の形の白人性を、新しい特権の場を作り出していると解釈することも可能です(あくまで理論的にです。本当にそうであるかどうかはわかりません。ぼくはシニカルですから、言いたいことは察してください)。新しい白人性の内容は、カラー・ブラインドなことを包含しているように思います。露骨に人種意識を表面に出す人間は、野蛮であり、反社会的であり、正常な人類からの逸脱者です。アフリカ系アメリカ人やオーストラリアの先住民は、集団として人種的・民族的に特殊なステイタスを要求しますが、白人至上主義者、つまり最も声高に白人の身体に基づく特殊性を叫ぶ集団も、白人の特殊なステイタスを求めるという同じ過ち(逸脱行為)を犯しており、黒人/有色人種ではない者としての白人性を持つことはできず、社会的に周縁化されます。白人としての特殊なステイタスの要求は、多くの場合、社会・経済的に低いステイタスを背景としており、階級的周縁化と重なり合います。白人至上主義や、イラク戦争を強く支持した好戦的なアメリカ・ナショナリズム、イギリス(イングランド)・ナショナリズム、オーストラリア・ナショナリズムなどは、白人ではない者に追いやられようとする労働者が重要な担い手でした。

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