第11章 変わる人種の意味

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紹介

人種主義思想が反社会的な考え方になり、人種主義的な制度が崩れると…。その具体的な例としては、アメリカ合衆国の公民権運動やアファーマティヴ・アクション(積極的差別是正措置)やカナダやオーストラリアにおける多文化主義政策の採用、南アフリカにおけるアパルトヘイトの崩壊(ネルソン・マンデラさんでーす)を思い浮かべてください。世界的にこうした進展があったにもかかわらず、人種主義が完全に意味を失うような時代は、残念ながらやって来ませんでした。

最近のヨーロッパでは、移民排除を唱える右翼勢力が台頭し、ある調査では、自分自身を人種主義者だと考える人間が増え、人種主義者であることへの嫌悪感は少なくなっています。こうした状況への反発は、フランスにおける2005年の大規模な「人種」暴動につながりました(最近、学生のなかに卒論でフランスの人種問題を取り上げる人が増えていますが、短絡的ですね。ジャーナリズムとちがうんやから、「もう少しひねれよ」と言いたくなります。そういう事件を知らない人よりもましでしょうが)。また、これまで民族として理解されてきた、文化的特性を持った集団を、あたかも「遺伝的に」変化しない「人種」のような集団として理解する心性が、あらゆるレベルで広がっています。こうした考え方は、文化的人種主義と呼ばれることもあります。

文化的人種主義は、「日系人はあんなに成功しているのに、黒人はダメやん。それは、黒人の生活や文化がなってないからや。」というような主張のもとにもなります。つまり、従来のように黒人という生物学的な人種にダメな原因を求めるのではなくて、変わることがないとイメージされる文化がダメだと決めてかかるのです(モデル・マイノリティって褒められて、喜んでてエエンヤろか。でも、ぼくは褒められて育つタイプです。書評をする人、肝に銘じておけ。「書評してくれんか?してして!」)。


他方で、人種の存在を否定する、カラー・ブラインドネス(人種色盲)の主張も行われるようになります。カラー・ブラインドの原則とは、黒人に対する差別だけではなく、アファーマティヴ・アクションなどを含む一切の人種による区別を認めず、すべての人間をその人間が個人として持っている能力と性質で評価すべきだとする主張です(すごい立派な考えやん。よっぽど偉い人かいな)。実際、あからさまな人種差別が厳しかった頃は、こうした主張は、高貴な考え方だったと思います。「分離すれども平等」という支配的な思潮に対して、あくまでカラー・ブラインドの原則を守るべきだと唱えることは、勇気のいることだったでしょう。

しかし、現在、こういう主張は、「白人」として歴史的に獲得してきた優位な地位を、平等というレトリックで守り続けるのにとても都合がよく、マイノリティに対する攻撃の論拠の役目をつとめています。「人種差別は、かつてはあったが、それはもう過去のもので、現在の人種的不平等は、各個人の努力と能力の差だ。それを人種主義の結果だと言い立てるのは、そういう告発をする者こそが人種主義者だからだ」という論理です。その影響もあると思いますが、現在でもアフリカ系アメリカ人が統計上明らかに経済的に恵まれない地位にいるのにもかかわらず、白人の多くはアフリカ系アメリカ人が自分たちより恵まれていると信じ込んでいます。それは、アファーマティヴ・アクションは不当だ。逆差別だという主張の根拠になっています(そしたら、ぜんぜんあかんやん)。


現代の人種意識、人種差別はとても複雑です。この問題を解く鍵の一つが「白人」という概念にあります。それが、白人性研究(ホワイトネス・スタディーズ)の見解です。「ナチス流の人種差別はアカン」では意味がなくなり、もうちょっと考えんとアカンようになっています。ニューヨークで仲が悪いんは、反ユダヤ主義を経験したユダヤ系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人。それはなんでやろう。それは、アメリカ史の人に聞いてもらうとして、白人性研究について、聞いてもらえまっか瓜(オジンかいな?3回目、ちょっと離れすぎ。「かなり快調」になってきたカモミール)。エスニシティ退潮論を批判する研究を見つけましたが、書いているのはユダヤ系の研究者でした。おもしろいですね。

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