第8章 中国人移民制限

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紹介

オーストラリア先住民の土地権獲得に大きな貢献をした歴史家ヘンリー・レイノルズ(レノルズとみんな呼んでいるように聞こえる。)は、自由主義ナショナリズムの重要性を強調し、次のように述べています。

「オーストラリア・ナショナリズムが、たとえ社会ダーウィン主義ではなく、ミルの自由主義ナショナリズムだけに基づいていたとしても、移民制限とカナカ人の追放とアボリジニーズに対する規制をともなった、ほとんど変わりない姿をしていたでしょう。言い換えると、自由主義ナショナリズムだけでなく、開発主義や平等主義という、きわめて重要で強力な流れがあり、それらは古典的な意味での人種主義とは同じではありませんが、私たちは今でも戦わなければならないものです。」

移民制限とは非白人の移民規制のことです。カナカ人の追放とは、オーストラリア連邦結成後に行われた、メラネシア人年季契約労働者の本国送還です。また、アボリジニーズに対する規制とは先住民に対する全般的差別を意味し、これらを合わせて、レイノルズはオーストラリアにおけるすべての主要な人種差別のことを言っています。オーストラリアの歴史家の一部は、人種主義思想ではなく、自由主義思想に人種差別の原因の一端を見ているのです。これから取り上げるパークスにも、古典的な人種主義を見ることはいとも簡単です。しかし、ここではパークスの自由主義的ナショナリズムを通して、白豪主義の意味を考えたいと思います(今日、古典的な人種主義思想は、社会的に周縁化されています。ところが、人種による差別や格差は容易に解消しません。表向きは人種主義のない人種差別を検討するには、少し角度を変えた見方も必要ではないでしょうか。著者はすごくまじめになっています。「まじやばい」とはこういうときに使うのでしょうか)。


現在のヤングの町に近い、ラミング・フラット金鉱で、反中国人暴動が繰り返し起こると、1861年、中国人移民制限法案が再び議会に提出されます(ヤングは、キャンベラから車で2時間ほどの場所にあるサクランボの都として有名な町です。朝食はサクランボだけでも済ませられるくらい、ぼくはサクランボ好きです)。今回は、暴動の再発を恐れた上院も法案に賛成することになります。パークスは、その討論で、中国人問題に関するかれの議論をもう少し完全な形で提示しました。その後20年間にわたって、かれはこの議論は繰り返し用いることになります。法案の討論が始まる直前に、パークスは議会に、ラミング・フラット金鉱の中国人の保護を要請するシドニーの商人からの請願を提出しました。このことは、パークスが中国人に対してとりわけ敵意を抱いているわけでもないし、中国人の人間としての権利を否定しているわけでもないことを示しています。

パークスは次のように述べています。「中国国民を口汚くののしることによって、中国人排除を正当化するつもりはない。」また、そういった「途方もない、正当化のできない悪口にはまったく共感を感じない。」さらに、「もし議員のみなさんがお望みなら、私たちと、中国人は同じ力を持ち、道徳上の性質や勤勉さにおいて等しく、勇気や忍耐力においても等しいことを認めよう。」しかし、かれらは「私たちにとって、宗教、社会的権利、敬意や尊敬を払うべきすべてのものにおいて異邦人であり」、こうした人びとに飲み込まれないようにする、「私たちには自己保存の義務があり、この点で生存そのものを脅かす移民に終止符を打つことはまったく正当な行為だ」というわけです。


しかし、パークスは、劣った階級を生み出すことに反対していたにもかかわらず、中国人の不動産取得を禁止しようとします。パークス自身が植民地社会に不平等を生み出すという自己矛盾に陥ります。これには次のような反論が行われました。「一旦中国人の入国を認めたならば、中国人から市民権を奪う」ことは誤りだという主張です。パークス自身の金鉱地法案への反対論と驚くほど似ていますね。1879年の法案は下院を通過しますが、上院では圧倒的多数で否決されます。しかし、1880年にアメリカが中国人移民規制に乗り出し、中国人移民の拡大が予想される状況が生まれるなかで、1881年には中国人移民規制法案が成立しました。太平洋世界は、移民規制という点でも連動して動くようになりつつありました。

1881年の法案には、中国人が不動産を取得することを禁止するだけでなく、中国人居住者に対して移民規制免除証明書の取得を義務化し、中国人乗客のいるすべての船を検疫のために隔離する条項が含まれており、中国人を事実上二級市民に変えるものでした。これに対しては、W.J.フォスターという下院議員が「中国人を、人間というよりも、むしろまともな住処を持たない獣として扱うくらいならば、すぐに彼らを皆殺しにして、海に追い落としてしまったほうがましだろう。できることなら中国人を植民地から閉め出そうではないか。しかし、入国した者は、人間として扱おうではないか」と呼びかけています。

パークスはどう反応したでしょうか。パークスは、自分の矛盾を認めます。しかし、同時に「ひとつの階級の人びとから、他の階級の人びとが持つ権利を奪う法律を通過させることは、賛成できることではないが、絶対に必要な場合にはこうした方針も正当化できる」と自己弁護に努めました。(パークスを非難する権利が、私たちにはあるでしょうか?必要に応じて外国人を研修生として低賃金で雇い、不要になると切り捨てる!私たちの社会も、それほど進歩していないように思われます。また、シンガポールにとっては、外国人労働者は文字通りバッファーにすぎず、不況のときは国外に追放するのが当然になっています。シンガポールは未来に向かった国らしいですけれど、あまり付き合いたい国ではないですね。)ところで、1880年代にパークスの平等を求める議論はますます実体のないものに変質します。中国人を平等に扱えないから、中国人が入国すると劣等な階層が生まれる。自由で平等な社会を維持するためには、中国人を排除しなければならない。結局、そういう議論になってしまい、そこからは社会の構成員はすべて平等であるべきだという原則がすっぽりと抜け落ちてしまいます。人種意識が平等追求の論理を支えるという奇妙な議論が、この後発展する白豪主義を支えることになります。

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