第9章 黄禍論と平等の原則

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紹介

アメリカの南北戦争によって、合衆国で奴隷制度が廃止されると(1865年、憲法修正第13条)、すべての人種が平等な社会が訪れるという期待が広がりましたが、現実にはそうはなりませんでした。奴隷制度自体は、近代資本主義社会においては、その発展をいろいろな面で阻害するシステムであっただけでなく、国民国家にとってもやっかいな代物でした。したがって一旦奴隷制度が廃止されると、それが2度と復活することはありませんでした。まさしく、前時代の遺物であったわけです。しかし、人種主義は奴隷制度とともに消えてなくなったわけではありません。パークスの例で見たように、人種主義は、平等を志向する動きとも、改革主義的な動きとも矛盾するものではなく、むしろ、この時代には、そうした動きが人種意識の高揚につながっていきます(「人種主義は平等を餌に成長する。」これは決まったか?)。奴隷制度の廃止は、人種思想の拡散の始まりであったようにさえ見えます。


1890年代には、中国人に対する移民規制が他のアジア人や非白人に拡大される時代です。ただしそこには障害がありました。例えば、アジア系の移民の大規模な流入というような事態に直面していなかったイギリス本国は、人種による移民制限に反対し、帝国のすべての臣民が自由に帝国内を移動することを、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドのような自治植民地に要求しました。少し状況は異なりますが、同じようなことがアメリカ合衆国でも見られます。憲法修正第14条及び15条によって人種差別が禁じられていたので、移民の規制であればまだしも、国内で黒人を直接差別することはできませんでした。

そこで考え出されるのが見た目は平等で、実質的には人種差別を行う手段です。1890年にミシシッピー州が人種差別を実行する手段として、教育試験を行うという方法を編み出します。アメリカでは、選挙で投票するには有権者が有権者登録を行う必要があります。ミシシッピー州は、有権者登録を行う際に、アメリカ憲法を十分に理解していることを要求する法律を制定しました。理解の程度を問う権限は役人に与えられ、役人は黒人をターゲットにこの法律を運用することで、事実上ほとんどの黒人から選挙権を奪うことができるというわけです。1892年には、同様の法律が、イギリス領であった南アフリカのケープ植民地でも非白人の選挙権の制限に採用されました。1896年には、アメリカの移民法にもこのアイデアが利用され、移民に自国の言語での読み書き能力を要求する法案が議会を通過しましたが、これにはクリーヴランド大統領が拒否権を行使しました。


ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「黄禍」という語の生みの親だということになっていますが、1880年代の末には中国人が脅威であって、それはとりもなおさず黄色人種の脅威だという認識が太平洋沿岸の白人入植者の間にすでに広まっていました。こうした黄禍論の伝播は、白人意識の拡散と表裏一体となっています。オーストラリアにおける白豪主義の誕生や(白豪という言葉は1880年代に初めて現れた)、アメリカ合衆国太平洋岸諸州における白人意識の高まりは、黄禍論の台頭と相互補完的なプロセスを成していたのです。こうした人種意識の高揚は、中国人だけでなく、日本人やインド人などの他のアジア人の移民を規制し、その権利を制限することを正当化する主張の土台になっていました。黄禍論は、各地のアジア人移民制限政策と一体となって展開します。

これらの地域では、アジア人移民の問題は、労働問題と直結していると考えられていたので、勃興しつつあった労働運動が黄禍論の積極的な唱導者となります。南北戦争後に、黒人差別の再編に労働者階級が深くかかわっていたのと同じです。そうして、黄禍論は、太平洋沿岸の民衆意識に広く浸透するようになりました。また、国民国家形成に努めていた政治家にとっても、黄禍論は好都合な議論でした。社会改良主義者たちも、しばしば黄禍論を受け入れました。さらに、社会ダーヴィニズムの影響力の拡大も、黄禍論の伝播に好適な環境を用意していたと言えるでしょう(えらく説明的になっていますがご勘弁を。黄禍論を「正しく?」説明しようとがんばっています)。


連邦政府の公認のもとに人種差別が実施される以前、つまり1870年代から1890年までの間でも、アメリカ南部では、よく知られている人種差別組織クー・クラックス・クランなどによるリンチや、暴力、嫌がらせによって、すでに人種差別は現実のものでした。そのうえ、1870年から1884年の間に、11の南部の州がすでに異人種間の婚姻を非合法化しています。また、黒人と白人の学校を分離する法律も1866年のテネシーとアーカンサスに始まり、1869年にはヴァージニア州が州憲法によって黒人と白人が同じ学校に通うことを禁じ、多くの南部諸州がこれに倣いました。また、鉄道などにおける交通機関の分離も始まっており、連邦最高裁判所による「分離すれども平等」の原則の確認は、こうした実質的な差別を、連邦レベルでの平等の建前と両立させるための方便でした。(山田史郎「アメリカにおける白人の形成」『白人とは何か?』第8章も参照してください。)

アメリカ合衆国にしても、オーストラリアにしても、新たな人種主義的制度の構築と人種思想の広まりは、国民国家としての国民の平等が拡張されるプロセスと平行して進んだだけではなく、それと密接に結びついた現象でした。名目上すべての人種に対して平等ながら、実際は特定の人種を除外するのが、民主的社会おける人種差別のありかたです。


国内に顕著な特徴がある非白人集団を多く持たなかったヨーロッパ諸国では(最近、近代以前にヨーロッパにいたアフリカ人に注目が集まり、大文字のヒストリーからは消されてしまった歴史として注目を集めています。ただし、そうした歴史を発掘する重要性は、その存在の大きさを保証するわけではありません)、非ヨーロッパ地域の植民地支配や帝国支配を通じで、人種思想や人種意識が発達したように思われます。先ほどのイギリス帝国史研究会でよく言われた「帝国意識」(木畑洋一先生に敬意を表してカッコをつけました。ただし、ぼくには帝国意識の意義を強調する意義がよくわかりません)というやつですかね。19世紀には、支配者としての優越感を元に、非ヨーロッパ民族を見下して、文明化という恩恵を、植民地支配者として未発達の民族に与え、それを啓蒙するという主張が流布します。前に述べた啓蒙思想を思い出してください。人間が努力によって完成した状態になる可能性があるという意味では平等ではあるが、未開の状態にある野蛮部族から、高度に発達した文明国家まで現実には存在し、高度に発達したヨーロッパの国は、未開な民族を文明化することによって世界の進歩に貢献しているというのが、「文明化の使命」論です。文明化の使命というのは、差別的ではありますが、ヨーロッパ人のいう文明化(つまり同化)を通じで、非植民地の住民の一部が植民地支配層に同化する道を残していたという意味では、身体的差異と出自を絶対化する人種主義よりは、人間を区別するという点ではマイルドです。日本も南洋諸島や台湾支配では、こうした文明化政策を積極的に取り入れたと言えると思います。日本が文明化を行えるほど文明化した国であることを(ちょっとややこしいですね)、欧米諸国に示すためです。

ヨーロッパ諸国は、太平洋沿岸諸国のように、アジア系の移民の大規模流入や国内に大規模なアフリカ系の黒人集団を持たなかったので、文明化を旗印とする帝国意識、人種的な優越感を20世紀に入っても持ち続けます。それは、黄禍論が定着し、分離主義が徹底し、恐怖に基づく人種意識が発達する太平洋沿岸を中心とする白人の新定住地域との大きな違いです。にもかかわらず、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人、様々な人種は相容れないもので、人種は隔離しておいたほうがよいという思想がヨーロッパでも広まり、植民地政策では、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の混血が起こらないように管理し、社会生活の様々な面で両者を分離しようとする試みが行われます。あからさまな人種政策が、植民地支配を受けた人びとの強い反発を招く傾向があったのに対し、文明化政策には、被征服民に同化の願望を与えて、時として抵抗を緩和する作用がありました。

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