第10章 プレイバック

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紹介

脇に、いや本題にそれてしまったので、話をわきにプレイバックします。戦前、ぼくの父方の祖父の家は、金網を扱う船場の商家、母方の祖父の家は河内の金網工場の社長さんでした。実家は商家だったのですが、父は陸軍士官学校を卒業したあと、最近NHKで放送された「シリーズ 証言記録 兵士たちの戦争 第5回 中国大陸打通苦しみの行軍1500キロ――静岡県・歩兵第34連隊」(タイトルなっがー)に登場する、陸軍最強と言われた第34連隊に配属になり、昭和17年に「南支」に渡ります。ちなみに大阪の第8連隊は、「またも負けたか8連隊」(シバリョウも言及、ちなみに鷲田清一ワシキーはうちの学長、ピカッと光り輝く知性の大阪大学、学長には頭に武器があってズルイよー)とよく言われる、陸軍最弱と言われる連隊でした。


父の死の16年後に、香港生まれの女性と結婚します。妻の父方の親族は、湘桂作戦が行われた地域の出身で、第二次世界大戦後に香港に移住した人びとです。ぼくの母は結婚に反対しましたが、妻の両親は、とくにこの結婚に反対することはありませんでした。妻の父は、「黒人と結婚しても、いい人ならかまわない」と言っていたそうです。中国人はとんでもないナショナリストで、日本人は冷静な客観主義者であるような論調がありますが、時と場合、人によります。


妻と出会ったのはオーストラリアです。白豪主義を放棄し、アジア人学生も含めて大学の授業料が無料であった、理想に満ちていたころのオーストラリアで、ぼくたちは初めて出会いました。(昔のオーストラリアは学ぶところが多かったと思います。新自由主義の唱道者のようなオーストラリア人の学者に名刺を渡されると、ウっザッハトルテ。よくみんな付き合うわ。物を持ち上げるときは、よっこいしょういち)。ぼくは修士課程の1年生で、白豪主義の史料を集めるために、オーストラリア国立大学の寮、ブルース・ホールに滞在していました。そこで香港からの二人の留学生とすごく親しくなり、その二人と知り合いだった家内と出会いました。


妻には弟がいます。妻は香港大学の出身ですが、弟はアメリカの大学を卒業後、アメリカに帰化し、ボストンに両親を呼び寄せました。今は、弟も両親も中国系のアメリカ人です。ぼくの家族の歴史を振り返ってみると、ぼくが研究の対象とした白豪主義の歴史やグローバル化する世界の歴史が家族の歴史に大きく影響していることがわかります。

どういうふうに?

こうした出会いの背景には、人種意識の大きな変化があります。アメリカが人種や民族に基づく移民規制を撤廃し、オーストラリアが白豪主義を放棄していなければ、現在のぼくの家族の歴史は全く異なっていたでしょう(最後、「かみ」で落とそうと思ったが)。

感想


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