第1章 用意、スタート!

前の章へTOP>第1章|次の章へ

メニュー

見出し

紹介

大学でよく似たテーマで授業をしていたときに、東南アジアからの留学生に、「授業を聞いているとだんだんわからなくなってきました。白人とは何ですか、頼むから教えてください。助けてください」と懇願されたことがあります。ぼくと違って、えらいまじめな学生です。日本人の学生にはときどき単位を懇願されますが(「ワニの涙」という言葉の意味をそれで知りました)、新鮮な経験はいいものです。

ぼくはそのとき、こういうふうに答えたと思います。授業には二つの種類があります。一つは、先生が「人種」とは何か、「国民」とは何か、「多文化主義」とは何かを教えてくれる授業。人種とはそういうものだったのか。国民とはそうした定義なのか。多文化主義とはそんなもんだったのかと、説明を理解し、覚えることで学生は納得します。

ところが、もう一つタイプの授業は、「人種」や「国民」は、教科書や辞書ではこういうふうに定義されているけれど、「本当にそうだろうか」と考える授業です。「こうだろうか、ああだろうか」と考えているうちに、しばしば学生は、だんだんわけがわからなくなってきます。そうすると、これまで当然だと思っていた日常の多くの前提が、揺らいできます。そうした試行錯誤から日常を見るもう一つの眼を養うための授業、これが二つ目の授業です。ちなみに、アメリカの大学では、95パーセントが前者、5パーセントが後者のような授業をしています(ええ話や。しかし、関西人は、「知らんけど」って、最後につけとくで)。

この本は、二つ目の授業のような感じを大切にしています。「エビちゃんは白人?」「マライア・キャリーは黒人?」「ヒラリー・クリントンとバラック・オバマの争いは?」というような疑問から始まって、白人とは何だろうかと考えることで、差別と区別はどうちがうんだろうか。人種というのは何だろうか。性差別はそれとどう関係しているんだろうか。というような問いにぶつかっていくような本です(ちょっとウソはいってますが)。


話を戻して(元へ)、現在は「アイデンティティが流動化する時代」と言われています。多くの移民が国境を越えどんどん移動します。グローバリゼーションの時代であり、一つの国にさまざまな民族が住むのが普通の時代になってきました。国民国家を超えるEUのような組織がばんばん拡大し、国民というアイデンティティが絶対だった時代はだんだん過ぎ去ろうとしているかのようです。地域の絆もじょじょに失われつつあります。また、終身雇用制がますます変質し、会社との関係にもとうとう変化が現れるようになってきました。

ところで、こういう時代には、おもしろい現象が見られます。日本国内における映画「靖国」への過剰反応、オリンピックの聖火リレーに対する中国人に典型的ですが、国からの保護が低下するのと反比例するかのように、ナショナリズムは明らかに世界的に高揚しています。他方、日本では、そんなの関係ないかのように(ちょっとつらい)、血液型や占いが流行し、美輪明宏や江原啓之が売れっ子になったり、ブランド信仰が高まり、KYと呼ばれないようにしようとする意識が若者(死語か?)の間で広がったりしています。親は親で、子供への教育に対する願望はますます強くなっているように見えます。東大の入学式では、保護者の数が学生の数を上回ったそうです(阪大もよく似たもんです)。こうしたことは、それぞれ関係ないんでしょうか。

アイデンティティが流動化する時代とは、世界(社会)のなかに自分の確たる居場所が見つけられない、現在はまだしも、将来を考えると、自分の居場所に、確信も自信も持てないようになった時代です。そういう時代を、どう生きますか?「年金も頼りにならへんし、会社もいつ首になるかわかれへんし、身に付けた技術もどうなるかわかれへん。何でも自由みたいやけど、明日どんな服着たらええんやろう。」

KYにならないように気をつける、目立たないように授業で発言しない、リクルート・ファッションに身を包む、世間の礼儀に気を使う、最大限普通であるように努める。同時に、少しでもいい学校に、少しでもいい就職先に、最新のファッションを身に付け、高級住宅街に住み、できる限り他人と差をつけようともします。多くの政府がグローバリゼーションとナショナリズムを同時に強化しようとするように、多くの個人が標準化(ふつうでいようとし)と差異化(ちょっとこだわり、品格を気にする)を同時に目指します。そうした矛盾に満ちた現実は、ますますアイデンティティを流動化し、標準化と差異化への、平等と格差への、個人の関心を同時に強めるように見えます。なんで?それは日本に特有のこと?このままでええのん?最近、こんなに科学が発達し、便利なのに、蟹工船の時代のように人がなんで過労死するねん?米は余ってるのに、なんで日本で飢え死にする人がでるねん?「どっか歯車が狂ってるんとちゃうやろか」。

「白人とは何か?」というのは、ホワイトネス・スタディーズと呼ばれる新しい研究分野が発する、アカデミックな問いなのですが、その問いを、私たちの日常生活における平等と格差の問題として、アイデンティティが流動化する私たちの社会の歴史的な課題として、とらえなおしてみようと思います(言い方、学者的、「実におもしろい」。著者のイメージは福山を思い描いて読むと、すっごく現実に近いです。「どこの福山やねん!」)。アカデミックな問いが、日常生活につながり、日常生活から、個人を取り囲む環境を理解し、グローバル化する世界を理解する独自の目を持つ。「そういうことがでけへんかな。」

感想


TOP 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 オマケ