第18章 アイデンティティ・ラベル

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紹介

「流動するアイデンティティ」について考えたいと思います。例のごとく図から始めましょうか。

大きな円の中に示したのが、公民権運動が打倒しようとしたアメリカの人種主義的な社会システムの下での、黒人という記号(シンボル)とその記号内容(意味内容)、さらに指示対象としての身体の関係を図示したものです。黒人という記号は、貧困で、不潔なスラムに住む最下層の危険な人種で、知性に欠け、非合理的で情緒的、しかも反抗的だという否定的な属性と結びついていました。こうした意味内容は、テレビや新聞などのメディア、日常の社会的なコミュニケーションを通じて構造化されていました。意味内容の容器としての「黒人」の身体、黒い肌を持つとされる身体は、ワンドロップ・ルールや婚姻の禁止などによって制度的に固定化され、こうした身体を持つ人とネガティヴな意味内容は、「分離すれども平等」という原則に基づく差別・経済的な不平等などによって社会的に固定化されていました。つまり人強固な人工的仕組みが、黒人の差別をあたかも固定的で、自然な秩序であるかのように見せていたのです。


最後は、黒人という言葉と意味内容に対する、容器としての身体からの離脱です。この方法では、黒人の身体を放棄することで、意味の三角形からの完全な離脱が可能になります。それはまったく新しいアイデンティティの創造への道と言えるものです。こうしたやり方のなかで伝統的行われてきた方法の一つは、「パッシング」です。肌の色が白人と見分けのつかない人びとで、黒人と見なされていた人びとは、黒人コミュニティとの連絡を絶ち、白人的な生活を送ることで、容器としての白人の身体も手に入れました。ただし、この方法では、個人はまったく新しいアイデンティティを取得できますが、差別的な社会的コンテクストと意味の体系はほとんど変わりません。もう一つの可能性は、それとは比べてはるかに名誉のある離脱の仕方です。それはハイブリディティ(異種混淆性)、つまりさまざまな人種の混血したカテゴリーへの移行です(『白人とは何か?』83−85頁参照)。この主張がなぜ名誉あるものと考えられるかと言うと、第1に、それがアメリカのほとんどの人が多くの人種や民族の混血だという事実に基づいており、アメリカ人というカテゴリーですべての人を統合する可能性を示していること。第2に、パッシングのように黒人性を否定して、白人性を肯定するような、人種差別的な原理には基づいていないこと。つまり、黒人性を出自の一部として受け入れているわけです。第3に、個人のアイデンティティは個人が選択するものだという一般的に受け入れられるようになった原則に基づいていること、などが挙げられると思います。第3の点は、ワンドロップ・ルールの呪縛を乗り越えるという面からも重要です。

これが未来を切り開くかどうかは、よくわかりません。黒人性の一部を受け入れるということは、一部を受け入れないということです。ハイブリディティが支配的にならなければ、パッシングと同じように、差別的な社会的コンテクストと意味の体系はほとんど変わらず、ハイブリディティは黒人ではない人びとのもう一つの身体の受け皿になるでしょう。


人種的に固定化された三角形からの離脱としては、どのようなものがあるのでしょうか。容器としての白人の身体を捨てる。そのような動きは見られるのでしょうか。『白人とは何か?』131−2頁に描かれているアフリカーナーの例は、その典型のように思われます。マンデラ政権の登場によって政治的権力を失ったアフリカーナー(南アフリカのオランダ系移民の子孫)は、背徳法などによって従来は白人の純血性を保とうとしてきたにもかかわらず、タブーであったはずの混血性の主張を強く行うようになっています。アメリカではどうでしょうか?先住民の血が混じっているという混血性の積極的主張はしばしば見られますが、白人と見なされている人が混血性を主張する例は少ないようです。南アフリカの例を考えると、ハイブリディティの表明の選択は、政治的・社会的人種状況に大きく左右されるようです。白人の側から、ハイブリディティの選択がほとんどない状況では、ハイブリディティのカテゴリー自体が、もう一つの「黒人ではない者」のカテゴリーとなってしまう。残念なことですが。

白人と見なされている人びとは、容器としての身体を入れ替えるという意味で、ハイブリディティを追求しているわけではないようです。しかし、かつて野蛮であったものが自然なものとして商品化され、流行しています。また、養子として第三世界から多くの貧しい子どもがアメリカへ送られています。最近、往年のアメリカのセックス・シンボル、マドンナの養子縁組が問題化しましたね(ベル・フックスはマドンナの白人性を分析していましたっけ)。そういえばアンジェリーナ・ジョリーも。それは、全面的なハイブリディティ化へのステップなのでしょうか? 多くの人は胡散臭さを感じているみたいですね。(ハイブリディティの問題は難しいと思います。文化が商品化した世界には、どこにも正統なものなどありませんからね。でも、少なくともそれを手放しで礼賛するつもりはありません。シニカルですからね。)


人種の三角形からの離脱するための最後の試みは、白人のカテゴリーから個人としてのアメリカ人への移行です。これは白人性への移行の主要なプロセスの一つでしょう。そこには、いかなる人種グループも民族グループも宗教グループも参加できます。そういう意味で、多くの人びとが共有できる理想のアイデンティティとなる可能性がありますが、アメリカ人はアメリカ人ではないカテゴリーと対立的に理解され、個人は個人ではないカテゴリーとして理解されるのが当然ですから、個人としてのアメリカ人自体が、黒人ではない者として機能する可能性は高いと言えるでしょう。

人種的に厳格な白人支配と異なり、白人性は非白人の多くのグループにとって魅力的ですし、ある意味でより公平だと思います。ただし、それは社会的格差を縮小するものではなかったみたいです。

感想


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