第19章 結びに代えてのまとめ

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紹介

資本主義的空間(グローバルで、帝国的で、国民国家的に重層性を持ちながら)における労働として等価な人間の自由交換、国民国家の枠組みの中での政治的人間として等価な自由交換に対して、有力な個人、家族、集団は、優越的な地位を得るために、賃金の格差や心理的な賃金の格差(経済的側面以外のあらゆる格差)を求めます。ジェンダーの差異、人種や民族の差異、階級的な差異は、そうした場合の重要な戦略です。こうした戦略は、人間の本質的差異を認めない自由な交換を根本から否定するものではけっしてなく、それを基本的には承認したうえに成り立つ新たな差異の創造です。白人性はそうしたシステムの構造の一部として組み込まれています(物語化して、自然化しています。「ほんまかいな」)。 資本家(雇用者)という集団がいたとすれば、労働者を安く雇う(労働を安く買う)ということは、資本家がそれだけ利益をえるということです。ジェンダーや人種的格差によって、安い労働力を雇えれば利益が増えます。だったら資本家はジェンダーや人種的格差を拡大しようとすると想定できます。しかし、それは労働力が自由に交換される労働市場において、相対的に安くなっているという状況が前提だということを忘れてはなりません。

ジェンダー、人種、階級的な差異によって差別される人びとはどうでしょうか?経済的・政治的(社会的も含む)国民としての平等を、近代西洋世界の正統な規範である自由・平等の原則に基づいて要求します。こうした圧力は、ジェンダーの差異、人種や民族の差異、階級的な差異を変化させるように作用しており、差異の秩序を常に変化させる原因の一つとなっています。ただし差別されている人々は、差異の原因であるジェンダー・人種・階級という要素を自然化し、独自の権利を要求するという戦略に進む場合もあります。またそれが、差別を複雑化したり、増幅したりする方向に働く結果に進む場合もあります。

近代国家が成立した初期段階では、人種的な差異、階級的な差異、ジェンダーによる差異が国家システムの中に組み込まれていました。本質化された伝統的な差異を利用したのです。しかし、それはけっして絶対的な差異として組み込まれていたわけではありません。アメリカ合衆国で見たように、こうした多様な差異は、それ自体が民主的な制度として主張できる分権システム(連邦制)などを通して、システムの中に隠され、紛れ込んでいたわけです。その調整(改革)は、自由・平等な原理の文字通りの実現を求める運動として、労働運動や黒人運動、女性解放運動などによって要求されていきます。


「アジア人や非白人に対する特殊な」移民規制システムは、すでに見てきたように第2次世界大戦後に、廃止されるようになります。ただし移民規制のシステムが消滅したわけではなく、人種主義的な、見える白人性による人種主義の規制がなくなったということです。愛知万博から逃亡した人たちがアジア・アフリカの人びとに限られていた、そして誰が逃亡したかを知らなくても、逃亡したのがどういう地域の人なのかはだいたい想像がつくという話をしたと思いますが、それは移民規制の対象になる人びとが構造的に大きく変わっていないことを示しています。「見える白人性」から「見えない白人性」への転換が世界的に起こり、日本もその一部に安住の場所を見つけているのでしょう。もちろん、それは、身体的な人種的特徴によって差別する制度の撤廃を求めてきた日本と日本人にとっては大きな勝利であり、活動できる空間の根本的な拡大を意味しました。また、国際的に(グローバルに、トランスナショナルに、コスモポリタン的に)活躍できる人びとにとっても、理想的な世界の実現のように見えるでしょう。

しかし、世界の構造はおおむねそのままだと思います。香港では、週末になると多数のフィリピン女性が町にあふれます。30年ほど前までは、家事手伝いの女性は香港出身者も多かったのですが、今では家事手伝いの女性のほとんどがパスポートによって管理されるフィリピン人の労働者です(建設会社で働くぼくの友人に日本にもこういう日が訪れると20年くらい前に言ったことがありますが、信じてくれませんでした。今はどうかな)。シンガポールや中東の産油国でも、多数の外国人労働者が非熟練労働者として雇用され、管理されています。かつてのアジア系契約労働者は、契約期間終了後には、労働をした国に自由な労働者として定住した場合も多かったのですが(それが人種主義を強めることにつながりました)、管理の徹底した現代では、滞在許可期間が終わった外国人労働者は出国しなければなりません。パークスの苦悩を感じる必要さえないのです。


私たちの世界は、自分の生まれながらの身分や地域社会が、安定した個人の居場所(アイデンティティ)を与えてくれるわけではありません。それは、居住地域、住居、学歴、職業、履歴、資産、収入、生活様式、人間関係、教養、性別、人種、国籍、民族、宗教、年齢、健康状態など、さまざまな要素の総合的な組み合わせで決まります。それは、あたかも移民に対する入国審査が、国民自身に対しても日常的に行われているかのようです。

こういう状況においては、一人の人間の居場所の安定性は、自分に関わる記号や意味内容を操作・管理する能力に依存するようになります。それは差異を巧みに操り、制御する能力と言い換えることもできるでしょう。たとえば、タイガー・ウッズは、自分の人種をカブリネイジアンCablinasianと称して、人種的ラベルを拒否し、一般のマスメディアから絶賛を浴びました。ウッズは、人種の記号操作の世界において、強者であることは間違いのないことです。マスメディアが絶賛するのは、消費社会の原理や白人性の構造にのっとった発言をしているからです。ウッズが証明したことは、現代世界では、記号をめぐる三角形のすべてを操作することさえ可能だということです。正しく?言うと、あらゆる人間が、個人としての能力に応じて、ふさわしい地位を得られる可能性があるということです。しかし、そうした可能性を拒否され、人種的ラベルを拒否できない人びともいます。ハリケーン・カトリーナの被害にあったニューオリンズの黒人の貧困層の人びとはどうでしょうか。こうした人びとが自分はカブリネイジアンだと(それほど混血していないかもしれませんが)主張しても、誰も気にとめないでしょうし、それを尊重してくれる人もいないでしょう。ニューオリンズの黒人全体が、自分たちがカブリネイジアンだと主張したとすれば、それに何か意味があるでしょうか。カトリーナの被害にあった人は、早く救われたでしょうか。

人種をめぐる記号・イメージvs意味内容vs身体(指示対象)の三角形を操作できる人間とそれによって操作され・管理される人間の間には根本的相違(誇張です。これも相対的というのが本当です)があります。白人性を身に付けた者とは、人種にかかわる記号や意味内容を操作・管理する能力がある者と言えるでしょう。あるいは白人性を持つ集団とは、こうした能力を巧みに利用できる集団です(ここらへん、文の調子で段階を一つ飛ばしています。気をつけて)。もう少し具体的に言うと、前に「黒人ではない者」として示した人びとですが、そういう人びとは一般的には、黒人ではないことを示すのではなく、ウッズのように、特定の人種グループに属しているのではないこと、あるいは人種的属性が意味を持たないことを当たり前のように生活できる集団です。ニューオリンズの黒人の貧困層や特権を失った白人貧困層はそうではない集団です。

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